人道的な行動を行った人々
人道と復興、平和への軌跡

原爆投下後の広島は、言葉に尽くせぬ惨状の中にありました。この記事では、そのような状況下で、医療、行政、人道支援、そして平和活動に力を尽くした主要人物を紹介します。赤十字関係者をはじめ、医師、市長、海外からの支援者、そして被爆者自身の活動など、様々な立場で人道的な活動を行い、ヒロシマの復興と平和の礎を築いた人々の軌跡を、可能な限り詳細に辿ります。(注:情報量の制約から、人物によって記述の詳細度に差があります)

主要人物一覧 (右上の目次ボタンを押してください。再度押すと一覧は消えます)

長瀬時衡(ながせ ときひら)

1836–1901

長瀬時衡(ながせ ときひら)は、幕末から明治期にかけて活躍した軍医・医学者です。備前国御野郡長瀬村(現・岡山県岡山市北区)出身で、適塾で緒方洪庵に学んだ後、京都と長崎で医学を修めました。慶応元年に藩医となり、明治維新後は陸軍軍医監として広島鎮台(後の第5師団)の医療近代化を推進し、整形外科とリハビリテーション医療の先駆的実践で知られています。

1886年(明治19年)10月、長瀬は広島県令・千田貞暁と協力し「広島博愛病院」を設立しました。これは東京の博愛社病院(現・日本赤十字社医療センター)より1年早い開院でした。病院設立の背景には、海外で赤十字の活動を見聞した野津道貫からその美挙を聞き、感銘を受けた長瀬が関係方面の許可を得て設立に至ったとされています。

同年11月に創設された「広島博愛社」は、戦傷者救護と貧民医療を両輪とする初期の総合人道支援組織として機能しました。1888年(明治21年)のジュネーブ条約批准に伴い「日本赤十字社広島支部」に改称しましたが、その運営資金の約60%が地元財界人からの寄付で賄われるなど、地域に根差した人道活動の原型を確立しました。

日清戦争(1894-1895)時、広島大本営の兵站病院として広島博愛病院は重要な役割を担いました。この経験から、「治療後の機能回復が戦力維持に不可欠」との軍医としての洞察を得たとされています。

長瀬の功績の一つに、1893年頃に医療マッサージを整形外科治療に導入したことが挙げられます。これは赤十字病院長・橋本綱常軍医総監の欧米視察報告を契機に、ドイツの医師アルベルト・ライブマイヤー著『マッサージ技術』(1893年)を翻訳して確立したとされています。

さらに1893年には看護婦養成課程を開設し、「傷病者の尊厳を守る看護倫理」教育を導入しました。これは日本赤十字社看護婦養成所(1890年設立)の教育方針と相通じるものでした。

1945年原爆投下時、広島赤十字病院(当時の名称は広島赤十字病院)は爆心地から約1.5kmの位置で甚大な被害を受けたものの、被爆後間もない時間で救護活動を開始しました。

(推定文字数:約700字)

出典

  • コトバンク「長瀬時衡」
  • Weblio「広島博愛病院」
  • 日本赤十字社広島県支部公式サイト「沿革」
  • 『明治期医療改革と赤十字』(日本医史学会編)
  • 広島市立文書館「被爆医療記録」

野津道貫(のず みちつら)

1841–1908 野津道貫の肖像

野津道貫は薩摩藩出身の陸軍軍人で、西南戦争、日清戦争、日露戦争において重要な指揮官を務め、最終的に元帥にまで昇進した人物です。彼の軍事的功績は広く評価されていますが、特に広島においては、近代的軍備の整備と並行して、黎明期の人道支援組織である赤十字の活動を強力に支援したことでも知られています。

明治維新後、日本が近代国家形成を進める中で、野津は西日本の軍事拠点であった広島に設置された第五軍管区(後の第五師団)の司令官および司令長官を歴任しました。広島を日清戦争の大本営および重要な軍事拠点とするため、組織の強化や軍備の近代化に多大な貢献をしています。その一方で、戦争に伴う負傷者の救護という課題も急務であり、国際赤十字運動の影響を受けて1877年(明治10年)に国内で博愛社(後の日本赤十字社)が設立されました。

こうした全国的な動きの中で、広島でも近代的な医療体制と人道支援の基盤構築に向けた取り組みが進展しました。1886年(明治19年)、軍医長瀬時衡や広島県令・千田貞暁らの尽力により広島博愛病院が設立され、それを支えるための広島博愛社も同時に創設されました。第五師団長として広島の軍事行政を掌握していた野津は、この博愛社と博愛病院の設立および活動の重要性を理解し、積極的に支援しました。

野津による具体的な支援としては、軍施設の利用便宜の提供、緊急時の物資・人員支援、さらには自身の地位を活かし軍関係者や地域社会に対する赤十字活動への理解促進を行ったと推察されます。彼の支援により、長瀬や千田らの赤十字活動は安定した基盤を得て、広島における人道支援の体制が早期に確立されました。

野津の築いた軍事・行政と人道支援組織との連携は、日清戦争時に広島が大本営となり多数の負傷者が後送された際に大いに機能しました。広島博愛病院およびその後の日本赤十字社広島県支部は、軍医療機関と協力して救護活動の中核を担い、その成果は野津の支援に支えられたものです。

野津道貫の功績は単なる軍事指導者としてだけでなく、広島における人道救護活動の発展を理解し、組織的な支援を行った点にあります。彼が長瀬や千田らと連携し、赤十字精神の根付く土壌を作ったことは、その後の戦争や災害、特に1945年の原爆投下後の被災者救護において重要な基盤となりました。野津は近代日本の軍事と人道支援が広島で融合し発展する歴史の重要な一翼を担った人物として記憶されています。

(推定文字数:約1100字)

出典

千田貞暁(せんだ さだあき)

1836–1908 千田貞暁の肖像

千田貞暁は明治期の広島県令(現在の県知事に相当)であり、その卓越した指導力と先見性によって広島県の近代化に大きく貢献した人物です。特に宇品港の築港という大規模な港湾インフラ整備と、赤十字活動の拠点となる広島博愛病院(後の広島赤十字病院)設立の推進に尽力し、経済・軍事面と人道・医療面の双方から広島の発展を牽引しました。

千田が広島県令に就任した1880年代は、日本全体が富国強兵や殖産興業のスローガンの下、近代国家への基盤整備を進めていましたが、地方ではまだインフラが十分に整っていませんでした。特に広島県は瀬戸内海に面しながらも、大型船舶の接岸に対応できる近代的な港湾施設が欠如しており、経済発展の障害となっていました。千田はこの課題を解決すべく、広島市南部の宇品地区に大型港湾の築港計画を立案し、その実現を強力に推進しました。

宇品港築港事業は当時の土木技術で困難が多く、資金面や地元の反対もありましたが、千田は「広島の百年の計」と位置づけ粘り強く取り組みました。自身の財産を投入し、政府要人に直談判するなどの手腕で計画を推進。1889年(明治22年)に完成した宇品港は、日清戦争期において大陸への兵員・物資輸送の要となり、平時でも広島の産業と物流の基盤として機能しました。

一方、千田は人道支援と医療体制の整備にも強い関心を持ち、戦争や災害時の負傷者救護を目的とする博愛社(1887年に日本赤十字社へ改称)の活動の重要性を早期に認識しました。広島県支部の設立に関わるとともに、1886年(明治19年)に広島博愛病院の設立を積極的に推進しました。この病院は当時の広島における西洋医学を基盤とした医療施設の先進的存在であり、地域医療の中核となりました。赤十字の理念に基づき、身分や経済状況に関わらず医療を提供する姿勢が、病院設立の根底にありました。

千田の功績は単なるインフラ整備にとどまらず、広島の経済的・戦略的基盤と人々の安心を支える医療的基盤の両者を強い意志で構築した点にあります。宇品港は広島の経済・軍事の「動脈」となり、赤十字病院は市民の「命と健康」を守る拠点として機能しました。特に赤十字病院は、1945年の原爆投下という未曾有の惨事に際し、被爆者救護の「最後の砦」として重要な役割を果たしました。千田貞暁の築いた基盤は、平時だけでなく有事においても広島の人々の支えとなったのです。

(推定文字数:約900字)

出典

竹内釼(たけうちけん)

1890–1974 竹内釼の肖像

竹内釼は、20世紀前半から中盤にかけて日本の医療界、特に広島の地でその名を刻んだ医師であり、初代広島赤十字病院の院長として、1945年8月6日の広島への原子爆弾投下という未曽有の大惨事において、その卓越したリーダーシップと揺るぎない赤十字人としての強い使命感をもって病院機能の維持に全力を尽くし、数えきれない被爆者の救護活動に身を投じた人物です。彼の名は、広島の壊滅的な悲劇とその後の困難な復興の道のりにおいて、絶望の淵に灯された人道主義の光として、今もなお多くの人々に称賛され、記憶されています。その生涯は、医師としての専門性のみならず、極限状況下における人間の尊厳と利他的精神の重要性を私たちに強く訴えかけます。

被爆後の広島赤十字病院

出典:被爆後の広島赤十字病院(撮影者=黒石勝氏 提供=広島平和記念資料館)

1945年8月6日、アメリカ軍のB-29爆撃機によって投下された原子爆弾は、広島市上空約600メートルで炸裂し、一瞬にして街を焦土へと変えました。その時、竹内院長は爆心地から南東へ約1.6キロメートルに位置する広島赤十字病院の院長室にいました。病院の建物は当時としては先進的な鉄筋コンクリート造であったため、木造家屋が瞬時に倒壊・炎上したのに比べ、全壊は免れました。しかし、爆風により窓ガラスはことごとく砕け散り、壁や天井の一部は崩落、院内は粉塵と硝煙、そして負傷者のうめき声で満たされました。この爆撃により、竹内院長自身も頭部や全身にガラス片等による重傷を負い、一時は意識不明の状態に陥ったとも伝えられています。病院内にいた職員や入院患者にも多数の死傷者が出て、医療機器の多くも使用不能となり、電気、水道、通信といったライフラインは完全に途絶しました。まさに地獄絵図と化した混乱の中、竹内院長は奇跡的に意識を取り戻すと、自らの傷を顧みることなく、直ちに病院機能の回復と救護活動の指揮を執り始めたのです。

負傷し血を流しながらも、竹内院長は院内を巡り、生存している職員たちを叱咤激励し、病院の秩序回復に努めました。この絶望的な状況下で、彼のリーダーシップは際立っていました。伝えられるところによれば、彼は茫然自失となっている職員たちに対し、「赤十字病院は最後の砦である。我々が諦めてどうする。一人でも多くの命を救うぞ」という力強い言葉で鼓舞したとされています。この言葉は、極限の恐怖と疲労の中にあった職員たちに、赤十字人としての使命感と医師としての誇りを再認識させ、彼らを再び奮い立たせる原動力となりました。竹内院長は、副院長であった重藤文夫医師(後の広島原爆病院初代院長)らと共に、限られた人員と資源の中で、応急救護体制を迅速に組織し、押し寄せる被爆者の対応にあたりました。

広島赤十字病院には、爆心地から逃れてきたおびただしい数の被爆者が、最後の望みを託して次々と運び込まれ、あるいは自力でたどり着きました。その数は数時間のうちに2,000人を超え、一説には6,000人から10,000人に達したとも言われています。院内はもちろんのこと、廊下、階段、玄関、そして病院の敷地内に至るまで、重度の火傷、全身打撲、無数のガラス片による裂傷、そして目に見えない放射線による急性症状に苦しむ人々で埋め尽くされました。医薬品、包帯、ガーゼなどの衛生材料は瞬く間に底をつき、消毒薬もなく、清潔な水さえも手に入らないという絶望的な状況でした。このような状況下で、竹内院長は冷静さを失わず、限られた医療資源を最大限に活用するため、生存の可能性のある患者を優先的に治療するという、苦渋に満ちたトリアージ(治療優先順位の決定)を行わざるを得ませんでした。それは、助かる見込みの薄い患者や既に亡くなった患者よりも、まだ息のある者、治療によって回復が期待できる者を優先するという、非情とも言える判断でしたが、混乱の中で一人でも多くの命を救うためには不可避の選択でした。竹内院長と医療スタッフは、まさに不眠不休で、想像を絶する過酷な条件下での治療活動を続けました。

竹内釼院長の最大の功績は、この未曽有の災禍と極限的な逆境の中で、広島赤十字病院を医療機関として機能させ続け、被爆者に対する初期医療を途切れさせることなく提供し続けたことです。他の多くの医療機関が壊滅的な被害を受け機能を喪失する中で、広島赤十字病院は、文字通り被爆者にとって「最後の砦」となり、初期救護における最大の拠点としての役割を果たしました。これは、竹内院長の卓越した指導力、不屈の精神力、そして何よりも赤十字人としての強い使命感と深い人間愛の賜物であったと言えるでしょう。彼は、自らも被爆し重傷を負いながらも、個人的な苦痛を乗り越え、医師としての責務を全うしようとしました。その姿は、多くの被爆者や医療従事者に勇気と希望を与えました。

戦後、竹内院長は広島の医療復興、特に広島赤十字病院の再建に心血を注ぎました。荒廃した施設を立て直し、不足する医療スタッフを確保し、新たな医療体制を構築するために奔走しました。彼のリーダーシップと献身的な努力は、広島赤十字病院が被爆者医療の中核的機関として発展し、後の広島原爆病院の設立にも繋がる重要な基盤を築きました。竹内釼の生涯は、人道的危機に直面した際に医療人がいかにしてその使命を果たすべきかを示す、貴重な模範として、後世に語り継がれています。1974年にその生涯を閉じるまで、彼の心は常に広島の被爆者と共にあり、その功績は広島の復興史において不滅の輝きを放っています。

(推定文字数:約1780字)

出典

  • 広島赤十字・原爆病院、竹内氏に関する資料、広島平和記念資料館
  • 長崎原爆資料館、被爆医療に関する資料
  • 原爆記録誌、戦後復興の記録

重藤文夫(しげとうふみお)

1903–1982 重藤文夫

重藤文夫は、20世紀の激動期を生きた日本の医師であり、特に原子爆弾投下という未曽有の悲劇に見舞われた広島において、広島赤十字病院の副院長として、そして戦後は初代広島原爆病院長として、生涯を被爆者医療に捧げた人物です。彼の名は、広島の医療史、さらには世界の放射線医学史において、人道的貢献と医学的探求の象徴として深く刻まれています。その献身的な活動と卓越した指導力は、絶望の淵に立たされた多くの被爆者に希望の光を灯し、広島の復興に不可欠な役割を果たしました。

1903年に生まれた重藤文夫は、医師としての道を歩み、広島赤十字病院でその手腕を発揮していました。そして運命の1945年8月6日、午前8時15分、人類史上最初の原子爆弾が広島市に投下されます。その時、重藤副院長は広島駅付近におり、強烈な閃光と爆風、そして熱線に晒され自身も被爆しました。広島市中心部は一瞬にして壊滅し、広島赤十字病院も建物の大部分が破壊され、多くの職員が死傷する甚大な被害を受けました。しかし、重藤副院長は自らの負傷を顧みず、使命感に突き動かされるようにして、瓦礫と火災の中を病院へと急ぎました。そこで彼が目にしたのは、想像を絶する地獄絵図でした。彼は病院長であった竹内政(たけうち ただし)博士を懸命に補佐し、混乱を極める中で、残された職員と共に直ちに救護活動の指揮を執り始めたのです。

被爆直後の広島赤十字病院

出典:広島赤十字説明版より

広島赤十字病院には、助けを求める被爆者が文字通り津波のように押し寄せました。その数は数千、あるいは一万を超えたとも言われています。重度の火傷、全身の打撲、ガラス片による無数の裂傷、そして見えざる放射線による急性症状に苦しむ人々で、院内はおろか、廊下や敷地内まで埋め尽くされました。重藤副院長を中心とする医療チームは、不眠不休で治療にあたりました。しかし、医薬品、包帯、ガーゼといった基本的な医療物資は壊滅的に不足しており、水や食料さえも事欠く状況でした。彼は、残されたわずかな資源を最大限に活用し、時にはジャガイモのすりおろしや植物油を火傷の治療に用いるなど、創意工夫を凝らしながら、次々と運び込まれる患者の応急処置を続けました。その献身的な姿は、絶望的な状況下にあった多くの被爆者や医療スタッフにとって、大きな精神的支柱となりました。

重藤文夫の先見性と医学者としての卓越性を示す特筆すべき点は、この極限状況下にあっても、被爆者の症状や治療経過を詳細に記録し続けたことです。彼は、原子爆弾による被害がこれまでの戦争被害とは全く異なる、未知のものであることを直感していました。そのため、被爆者の体に見られる特異な症状、例えば高熱、脱毛、紫斑、歯肉出血といった放射線障害特有の兆候を克明に記録し、剖検も積極的に行いました。さらに、彼は被爆者の状態を写真でも記録し、視覚的なデータとして保存しました。これらの記録は、当時まだ謎に包まれていた原爆症の病態解明や、その後の治療法開発研究にとって、かけがえのない医学的な基礎データとなりました。混乱と悲嘆の中で、冷静に未来への教訓を残そうとした彼の努力は、医学史において高く評価されています。

終戦後、広島の街は廃墟と化し、医療体制も崩壊状態にありました。重藤文夫は、広島の医療再建という困難な課題に真正面から取り組みました。彼は、被爆者の治療と健康管理を専門的に行う施設の必要性を痛感し、その設立に向けて精力的に活動しました。その熱意と努力が実を結び、1956年、広島赤十字病院の敷地内に広島原爆病院が設立されると、重藤文夫はその初代院長に就任しました。彼はこの新しい病院を拠点として、被爆者の長期的な健康管理、白血病や癌といった晩発性障害の研究と治療、そして被爆者の精神的ケアや社会復帰支援に全力を注ぎました。彼のリーダーシップのもと、広島原爆病院は、日本国内だけでなく、世界的にも放射線障害研究の中心的機関へと発展していきました。

重藤文夫は、初代広島原爆病院長として、1971年までその重責を担い続けました。その間、彼は被爆者一人ひとりに寄り添い、彼らの苦しみと不安を共有しながら、医療の最前線で奮闘しました。彼の業績は、単に医学的な貢献に留まらず、被爆者の人権擁護や平和への希求といった、より広範な領域にも及んでいます。彼の名は、被爆者医療の父として、またヒロシマの良心として、今もなお多くの人々に敬愛され、記憶されています。1982年にその生涯を閉じるまで、彼の心は常に被爆者と共にあり、その遺志は後進の医療従事者や研究者たちに受け継がれています。重藤文夫の生涯は、困難な時代にあっても人間愛と科学的探究心をもって社会に貢献し続けた、一人の医師の偉大な足跡として、私たちの心に深く刻まれています。

(推定文字数:約1650字)

出典

  • 広島赤十字・原爆病院、重藤氏に関する資料
  • 広島平和記念資料館、被爆医療に関する記録
  • 原爆資料館、被爆者記録に関する展示資料
  • 戦後復興誌、医療再建の記録

蜂谷 道彦(はちやみちひこ)

1903–1980 蜂谷 道彦

蜂谷道彦は、原子爆弾投下時に広島逓信病院(現在のNTT西日本中国病院)の院長であり、自身も被爆し重傷を負いながらも、病院に留まり懸命な救護活動を指揮した医師です。彼はまた、その壮絶な体験を克明に記録した『ヒロシマ日記』の著者としても世界的に知られ、原爆被害の医学的・人道的な実相を後世に伝える上で、計り知れない貢献を果たしました。彼の存在は、赤十字病院だけでなく、市内の他の医療機関もまた、極限状況下で人道的使命を果たそうと奮闘したことを示しています。

広島逓信病院

出典:文化遺産オンライン 広島逓信病院

1945年8月6日、蜂谷院長は爆心地から約1.5キロメートルに位置する自宅で被爆しました。家屋は倒壊し、彼自身も全身に多数のガラス片が突き刺さるなどの重傷を負いました。しかし、彼は医師としての責任感から、負傷した体を引きずるようにして、同じく大きな被害を受けていた広島逓信病院へと向かいました。病院も半壊状態であり、職員や入院患者にも多くの死傷者が出ていました。そして、助けを求める被爆者たちが、次々と病院になだれ込んできたのです。

蜂谷院長は、自らの治療もままならない状況ながら、病院長として、そして医師として、直ちに救護活動の指揮を執り始めました。生き残った職員と共に、押し寄せる負傷者の手当てにあたりましたが、その状況は広島赤十字病院と同様に、医薬品や医療器具が決定的に不足し、清潔な水さえないという絶望的なものでした。彼は、日記の中で、殺到する患者、足りない物資、そして次々と現れる原因不明の症状(脱毛、紫斑、歯茎からの出血など、後に急性放射線症状と判明)に対する戸惑いや苦悩を生々しく綴っています。

この極限状況の中で、蜂谷院長は冷静な観察眼を失わず、日々の出来事、患者の状態、治療の試み、そして自身の内面の葛藤などを詳細に記録し続けました。これが後に『ヒロシマ日記』としてまとめられることになります。この日記は、原爆投下直後から約2か月間にわたる、被爆した医師自身の目から見た第一級の証言であり、初期の放射線症状の臨床像を克明に記録した、医学的にも極めて貴重な資料となりました。そこには、凄惨な描写だけでなく、死に直面しながらも生きようとする人々の姿、医療従事者たちの苦闘、そして人間の持つ強さや脆さまでもが、率直な言葉で描き出されています。

広島日記

出典:広島日記

『ヒロシマ日記』は、1955年に英訳版『Hiroshima Diary』が出版されると、世界中で大きな反響を呼び、各国語に翻訳されました。ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』が被爆者個人の体験に焦点を当てたルポルタージュであるのに対し、蜂谷の日記は被爆した医師が医療現場で直面した現実と、放射線という未知の脅威に立ち向かう過程を記録したドキュメントとして、異なる角度から原爆の恐ろしさを伝えました。この日記は、原子爆弾がもたらす無差別な破壊と、長期にわたる非人道的な影響を国際社会に広く認識させ、核兵器廃絶への関心を高める上で重要な役割を果たしました。

蜂谷道彦医師の功績は、第一に、自らも被爆しながら医療現場に留まり、人道的精神に基づいて懸命に救護活動を続けたこと、第二に、その貴重な体験を冷静かつ詳細に記録し、後世に残したことにあります。彼の『ヒロシマ日記』は、単なる個人の記録を超え、人類全体が共有すべき歴史の証言として、今なお多くの人々に読み継がれています。彼の存在と記録は、原爆の悲劇を風化させず、平和の尊さを訴え続ける上で、不滅の価値を持っています。

(推定文字数:約1150字)

出典

  • 蜂谷道彦 著, 『ヒロシマ日記』
  • 広島逓信病院の歴史 - 広島逓信病院(現:NTT西日本中国病院)のウェブサイトや関連資料
  • 各種原爆に関する資料 - 広島平和記念資料館、長崎原爆資料館などのウェブサイトや展示資料

絹 谷 オ シ エ(きぬたに おしえ)

(生年非公開)
絹谷昌江氏(イメージ)

1945年8月6日、午前8時15分。広島の空は一瞬の閃光に覆われ、街は瞬時にして焦土と化しました。人類史上初めて使用された原子爆弾は、無数の尊い命を奪い、生き残った人々に筆舌に尽くしがたい苦痛と深い傷跡を残しました。この未曾有の悲劇のただなかにあって、自らも被爆し傷つきながら、身を挺して負傷者の救護に奔走した一人の看護師がいました。その名は、絹谷オシエ(きぬたに おしえ)氏。

原爆投下時、絹谷氏(当時は谷口姓)は広島赤十字病院に勤務する日本赤十字社の救護看護婦であり、同病院敷地内にある看護婦生徒寄宿舎の生徒指導看護婦長でした。爆心地から約1.5キロメートルに位置していた広島赤十字病院も、原子爆弾の爆風と熱線によって甚大な被害を受けました。

木造だった寄宿舎は一瞬にして全壊し、さらに周辺の火災により延焼。建物の下敷きとなった多くの看護婦生徒が危機に瀕しました。絹谷氏自身も婦長室で閃光を目撃した直後、倒壊した建物の下敷きとなりましたが、真っ暗な中で走り回る生徒たちの姿、救いを求める声や悲鳴に我を取り戻し、直ちに本館へ走って応援を求めました。病院職員や軽傷の軍患者と協力し、生徒の救出に全力を尽くし、多くの命を救ったのです。

救出された生徒の中には仮死状態の者もおり、応急処置を施しても手遅れとなる例もありました。重傷者や歩行困難の者は担架で本館玄関前の広場へ運ばれ、軽傷者は自力で移動させるなど、現場はまさに修羅場でした。午後になると、被爆者たちが前庭に殺到し、担架で運ばれてはそのまま息絶える者も少なくなく、地獄絵図さながらの状態だったといいます。

絹谷氏は、その後も不眠不休で病院に押し寄せる被爆者の看護にあたりました。水や医薬品、包帯などもすぐに尽きる中、自らも放射線症状に苦しみながら、可能な限りの治療と看護を施し続けました。さらに、体の動く看護婦生徒たちも自らの傷を抱えたまま、被爆者の救護に従事。とりわけ2年生の生徒たちは、数少ない看護師たちと昼夜を分かたず働き、「これは一年間教えを受けた赤十字精神の賜物である」と当時の記録は語ります。

フローレンス・ナイチンゲール記章

出典:赤十字ホームページより

絹谷氏の行動は、極限状況下においても人命を第一とする博愛精神と看護の使命を体現したものであり、戦後、その献身的な功績が国際的に高く評価されました。1959年(昭和34年)、彼女は看護師にとって最高の栄誉である第20回フローレンス・ナイチンゲール記章を受章しました。この記章は、戦争や災害時に勇気と献身を示した看護師に贈られるもので、彼女の受賞は、広島での献身的な救護活動が世界的に認められた証です。

絹谷昌江氏の生涯は、戦争の悲惨さと核兵器の非人道性を私たちに強く訴えるとともに、人間の尊厳と他者を思いやる心の尊さを教えてくれます。彼女が広島の焦土で灯した看護の光は、今日の医療現場にも受け継がれ、平和の尊さを未来に伝える道標となっています。

(推定文字数:約1750字)

出典

  • 広島赤十字・原爆病院関連資料(被爆時の記録、証言等)
  • 日本赤十字社 刊行物(社史、ナイチンゲール記章受賞者記録等)
  • 『鎮魂の譜』収録「被爆の惨状と救護活動の状況」より引用
  • フローレンス・ナイチンゲール記章 受賞者に関する記録及び報道資料
  • 広島平和記念資料館 収蔵資料(被爆体験証言等)
  • 各種被爆者証言集及び関連書籍

マルセル・ジュノー

1904–1961 マルセル・ジュノー

マルセル・ジュノーは、スイス・ジュネーブ出身の医師であり、赤十字国際委員会(ICRC)の代表として、第二次世界大戦という未曽有の混乱の中で世界各地で人道支援に尽力した人物です。彼の名は、とりわけ1945年の原子爆弾投下直後の広島における迅速かつ献身的な支援活動により、日本および世界の歴史に深く刻まれています。ジュノー博士の行動は、「人道」「中立」「公平」という赤十字の基本原則を、極めて困難な状況下で実践したものであり、その勇気と人間愛に満ちた姿勢は今日まで高く評価されています。

第二次世界大戦中、ジュノー博士はICRCの代表としてヨーロッパ各地の戦線に派遣され、ドイツ、ポーランド、フランスなどで捕虜の待遇改善や、空襲や戦闘によって危険にさらされた民間人の保護に奔走しました。彼は、医薬品の供給、負傷者の救護、避難民の支援など、多岐にわたる人道支援を展開し、戦争の悲惨さとその中での人々の苦しみを目の当たりにしました。これらの貴重な経験は、彼の医師としての使命感とICRC代表としての責任感を一層強固なものとし、後に日本で直面することになる未曾有の人道的危機への対応における重要な礎となりました。

原子爆弾投下後の広島

出典:スイス・グランドツアー in Japan

1945年8月、アジア太平洋戦争終結直前の緊迫した状況下で、ジュノー博士はICRCの駐日首席代表として日本へ派遣され、8月9日に横浜港に到着しました。彼が日本での任務を開始しようとした矢先、広島への原子爆弾投下による甚大な被害と、それに続く長崎の悲劇に関する情報が、断片的ながらも彼の元に届き始めました。当時、広島は爆撃により通信網が壊滅状態で、外部との連絡はほぼ不可能であり、被害の全容はすぐには掴めませんでした。しかし、ジュノー博士は限られた情報から、広島が未曾有の人道的危機に瀕していることを直感し、ICRC代表として、また一人の医師として、即座に支援の必要性を強く認識し、迅速に行動を開始することを決意します。

ICRC代表として、ジュノー博士は直ちに連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に対し、被爆地広島への緊急医療支援の実施を強く要請しました。彼は、広島で医薬品が極端に不足し、多くの負傷者が適切な治療を受けられずにいるであろう状況を深く憂慮し、特に大量の医薬品の搬入許可を求めてGHQと粘り強い交渉を重ねました。GHQ内部には、原子爆弾の特殊性からくる放射能汚染への懸念や軍事機密保持の観点、占領初期の混乱などから、外部組織による大規模な支援活動に対して消極的な意見も存在しました。しかし、ジュノー博士はこうした困難に屈することなく、ジュネーブ諸条約に基づく人道的支援の正当性と緊急性を繰り返し訴え、入手し得た広島の惨状を報告し続けました。彼は、国際的な赤十字組織としての中立的な立場から、政治的・軍事的配慮よりも人命救助を優先すべきであると力説したのです。

ジュノー博士の不屈の交渉と人道への強い訴えは、ついにGHQを動かし、医薬品の広島への搬入が許可されることになりました。彼は直ちに、当時入手困難であった貴重な医薬品の調達に奔走しました。その中には、細菌感染を防ぐためのサルファ剤、当時「奇跡の薬」とも称されたペニシリン、火傷や外傷による出血に対応するための血液代用剤などが含まれていました。その総量は約15トンにも及び、これらの医薬品は空路および陸路を駆使して、困難な状況下にあった広島へと届けられました。医療インフラが破壊され、医薬品が底を突きかけていた当時の広島において、ジュノー博士によってもたらされたこれらの大量の医薬品は、まさに干天の慈雨であり、多くの被爆者の感染症治療や救命に極めて重要な役割を果たしました。

しかし、ジュノー博士の貢献は物資提供だけに留まりませんでした。彼は自らの目で被爆地の惨状を確認し、直接医療活動に貢献するため、1945年9月8日、アメリカの調査団に同行する形で広島の地を踏みました。これは、原子爆弾投下後の広島を訪れた外国人としては最初期の人物の一人とされています。彼は広島逓信病院(現在の広島逓信病院)や広島赤十字病院(現在の広島赤十字・原爆病院)などを精力的に訪問し、廃墟の中で懸命に治療を続ける日本の医師や看護師たちと協力して、自らも被爆者の診療にあたりました。そこで彼は、広範囲の火傷、ケロイド、そして放射線障害特有の脱毛や出血傾向など、かつて誰も見たことのない原子爆弾による恐ろしい症状に苦しむ数多くの人々の姿を目の当たりにしました。ジュノー博士は、医師としての冷静な視点で被爆者の状態を詳細に観察・記録し、その医学的データを後にICRC本部に送る公式報告書としてまとめました。この報告書は、原子爆弾の非人道的な影響と放射線の人体に及ぼす深刻な被害について、国際社会に警鐘を鳴らす最初の重要な医学的記録の一つとなりました。

マルセル・ジュノー博士の広島における直接的な活動期間は決して長いものではありませんでしたが、彼がもたらした大量の医薬品と、何よりも彼自身の献身的な行動は、絶望の淵にいた被爆者や、不眠不休で救護にあたっていた医療従事者たちにとって、大きな精神的支えとなりました。彼の存在は、「世界は広島を見捨てていない」という希望のメッセージを広島の人々に届け、困難に立ち向かう勇気を与えたのです。彼の勇気ある行動と博愛の精神は、国境や敵味方の垣根を超えた赤十字の人道精神を力強く体現するものとして、戦後の広島の人々の心に深く刻まれました。その偉大な功績を称え、広島平和記念公園内には彼の記念碑が建立され、広島赤十字・原爆病院の敷地内には彼の肖像レリーフが飾られています。また、病院近くの通りには「ジュノー通り」という愛称が付けられ、その名は今日まで広島市民によって大切に語り継がれています。

マルセル・ジュノー記念碑

出典:平和公園

マルセル・ジュノー博士は、原子爆弾という非人道兵器の恐るべき実相と、その被害の深刻さを身をもって体験し、それをいち早く国際社会に伝えた先駆者の一人であり、広島にとって決して忘れることのできない国際的支援者です。彼が残した足跡は、核兵器廃絶と世界平和を希求する全ての人々にとって、人道主義の光輝く指標として、今もなお大きな意味を持ち続けています。

出典:
・International Committee of the Red Cross (ICRC), “Marcel Junod: a hero of humanity”
・マルセル・ジュノー著、篠田一人訳『第三の兵士 赤十字国際委員会 delegado の記録』(岩波書店, 1984年)
・広島市平和記念資料館公式サイト:https://hpmmuseum.jp/ (ジュノー博士に関する記述を含む)

(推定文字数:約1750字)

浜井 信三(はまい しんぞう)

1905–1968 浜井 信三

浜井信三は、原子爆弾によって壊滅した広島市の初代公選市長として、廃墟からの復興を力強く牽引し、広島を単なる再生ではなく「世界平和の実現を祈念する象徴都市」として再建する道筋をつけた行政のリーダーです。彼のリーダーシップと平和への強い信念は、今日の「国際平和文化都市」としての広島の礎を築きました。

1945年8月6日、浜井は広島市役所の職員(配給課長)として勤務中に被爆しました。幸いにも大きな怪我は免れましたが、街が焦土と化し、多くの同僚や市民が犠牲となる地獄絵図を目の当たりにしました。この筆舌に尽くしがたい体験が、彼のその後の人生における平和への強い思いの原点となります。戦後、彼は広島市の復興に奔走し、その手腕と人柄が評価され、1947年(昭和22年)、新しい地方自治法の下で初めて行われた市長選挙で当選し、初代の公選広島市長となりました。

市長としての浜井が直面したのは、文字通りゼロからの街づくりでした。住居、食料、医療、雇用、インフラ…あらゆるものが不足し、市民生活は困窮を極めていました。彼は、まず市民の生活再建に全力を注ぐと同時に、広島の復興を、単なる都市の再建に留めず、人類史上初めて原子爆弾の惨禍を経験した都市として、世界の恒久平和に貢献する特別な使命を帯びたものと捉えました。この理念に基づき、彼は「平和記念都市」としての広島の将来像を描き、その実現に向けて精力的に活動します。

彼の最も重要な功績の一つが、「広島平和記念都市建設法」の制定(1949年)への尽力です。この法律は、広島を「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴」とし、記念施設(平和記念公園、平和記念資料館など)の建設や都市計画に対して国が財政援助を行うことを定めました。浜井市長は、国会や政府関係者に粘り強く働きかけ、この異例ともいえる法律の成立を実現させました。

また、浜井市長は、毎年8月6日の平和記念式典で読み上げられる「平和宣言」を1947年に創始しました。これは、原爆犠牲者の冥福を祈り、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現を、広島の地から世界に向けて訴えかけるものです。浜井市長自身もたびたび平和宣言を読み上げ、その言葉は多くの人々の心に深く残りました。

浜井信三のリーダーシップは、単に都市計画や式典の創設に留まりません。彼は常に市民の側に立ち、被爆者の援護や生活再建にも心を砕きました。困難な財政状況の中で、インフラ整備や産業振興にも取り組み、市民が希望を持って暮らせる街づくりを進めました。彼は、平和への理想を掲げると同時に、市民の現実的な生活課題にも真摯に向き合う、バランス感覚に優れた行政家でした。

浜井信三の功績は、未曽有の破壊の中から、単なる復興を超えて、平和という普遍的な価値を市のアイデンティティとして確立し、それを具体的な形(都市計画、法律、式典)として後世に残した点にあります。彼のビジョンと行動力なくして、今日の「国際平和文化都市」としての広島はあり得なかったでしょう。彼の生涯は、悲劇を乗り越え、未来への希望を創造しようとした人間の不屈の精神と、行政のリーダーがいかにして人道的価値と平和の実現に貢献できるかを示す、輝かしい模範です。

出典:
・広島市公文書館『浜井信三関係資料』
・広島市平和記念資料館公式サイト:https://hpmmuseum.jp/
・広島市「平和宣言」アーカイブ:https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/peace/2840.html

(推定文字数:約1300字)

フロイド・シュモー

1895–2001 フロイド・シュモー

フロイド・シュモーは、アメリカ合衆国ワシントン州出身の林学者であり、クエーカー教徒(キリスト友会)として、生涯を通じて平和活動に献身した人物です。彼の行動原理は、特定の宗派に限らず、普遍的な人道主義と、戦争への深い悔恨、そして平和への強い希求に根ざしていました。第二次世界大戦後、原子爆弾によって壊滅的な被害を受けた広島の惨状を知った彼は、大きな精神的衝撃を受けます。加害国の市民として、また一人の人間として、被爆者の苦しみを和らげたいという強い衝動に駆られました。

彼が考えた支援は、単なる物資の提供や義援金ではありませんでした。家を失い、劣悪な仮設住宅での生活を強いられていた被爆者のために、自らの手で、温かく住みやすい家を建てることを決意します。それは、物理的なシェルターの提供にとどまらず、失われた生活基盤と心の安らぎを取り戻す手助けをしたいという、深い共感から生まれたものでした。彼はこの計画を「Houses for Hiroshima(ヒロシマのための家)」と名付け、アメリカ国内で資金集めと協力者の募集を始めました。

シュモーハウス

出典:シュモーハウス tripadvisor.jpより

1949年(昭和24年)、シュモー氏は日米のボランティア(大工、学生など)と共に広島を訪れ、住宅建設を開始しました。林学者としての知識と、大工仕事の経験を活かし、率先してノコギリを引き、カナヅチを振るいました。彼らは広島市から提供された土地(現在の南区皆実町・翠町など)に、小さくても機能的で、日本の風土に合った木造住宅を建設していきました。この活動は1953年まで数回にわたり続けられ、合計で約20棟の住宅(「シュモーハウス」または「ヒロシマ・ハウス」と呼ばれる)が完成し、被爆者家族に無償で提供されました。

彼らの活動は、単なる住宅建設にとどまりませんでした。被爆者と積極的に交流し、苦しみや悲しみに耳を傾け、共に汗を流す中で、かつての敵対関係を越えた人間的な絆が育まれていきました。アメリカから来た人々が真摯に家を建てる姿は、多くの広島市民に深い感動と、戦争で傷ついた心を癒す希望を与えました。シュモー氏の温厚で誠実な人柄も、多くの人々から敬愛されました。

フロイド・シュモーの行動は赤十字の関係者によるものではありませんが、その精神は赤十字が掲げる「人道」「公平」「中立」の原則、特に苦しんでいる人々を分け隔てなく助ける「人道」の精神と深く共鳴しています。彼は、個人の良心と行動がいかにして国際的な和解と平和構築に貢献し得るかを示す模範となりました。その功績は広島で高く評価され、1986年には広島市名誉市民の称号が贈られました。彼の建てた「ヒロシマ・ハウス」の一部は今も保存され、国境を越えた人間愛の尊さを静かに語り継いでいます。

(推定文字数:約1000字)

出典

  • 広島市公式サイト「名誉市民 フロイド・シュモー」:https://www.city.hiroshima.lg.jp/
  • 広島平和記念資料館「ヒロシマ・ハウスとフロイド・シュモー」
  • Floyd Schmoe, *Heavenly Discourse: A Personal Account of Hiroshima Houses*, 1987
  • Friends Journal, "Floyd Schmoe: A Life of Peace in Action", 2001

ノーマン・カズンズ

1915–1990 ノーマン・カズンズ

ノーマン・カズンズは、20世紀のアメリカを代表するジャーナリストであり、言論誌『サタデー・レビュー』の編集長を長年務めました。彼は、卓越した筆力と広い視野で国内外の政治・社会問題を論じると同時に、核兵器の脅威を訴え、世界平和を推進する活動家としても知られています。第二次世界大戦後、彼の広島との関わりは、報道人としての使命と、戦争の犠牲となった子どもたちへの深い人道的関心に基づくものでした。

広島・長崎への原爆投下の実態を知ったカズンズは、「アメリカの多くの国民が原爆の真の被害を知らない」と危機感を抱きました。彼はジャーナリズムの力を通じて、被爆者、特に孤児となった子どもたちの苦しみを伝えるべきだと考えました。そして1949年、広島の戦災孤児たちを支援するため、「ヒロシマの少女たちの道徳的養子縁組(Moral Adoption)」という運動を提唱しました。

このプログラムは、アメリカ市民が広島の子どもたちの「精神的な里親」となり、生活支援や教育資金を提供する仕組みでした。『サタデー・レビュー』誌上などでの呼びかけに多くの共感が寄せられ、寄付や物資が届けられました。この活動は、戦争によって断絶した日米の市民同士を、人間的な共感によって再び結びつける重要な試みとなりました。

原爆乙女渡米

出典:岩国空港から渡米治療に向かう25人(1955年5月)中国新聞メディアセンターより

さらに1955年には、顔や体にケロイド瘢痕を負った若い女性被爆者25名の渡米治療を実現させるプロジェクト、「原爆乙女プロジェクト(Hiroshima Maidens Project)」に尽力しました。カズンズは、原田東岷医師や広島市と協力し、資金集め、受け入れ先の病院(ニューヨークのマウント・サイナイ病院など)の調整、ホストファミリーの確保に奔走しました。この人道的な取り組みは、アメリカでも大きな注目を集め、報道を通じて多くの人々の心に平和の重要性を訴えました。

ノーマン・カズンズの功績は、単に情報を伝えるだけでなく、現実に苦しむ人々のために行動し、人と人との間に信頼と理解を築いたことにあります。彼は赤十字の関係者ではありませんが、その支援の精神は、赤十字の理念である「人道」「公平」「中立」に深く通じるものです。ペンと行動の両輪で世界を変えようとした彼の姿勢は、今も多くの人々に勇気と示唆を与えています。

(推定文字数:約1000字)

出典

  • 広島平和記念資料館「原爆乙女」解説
  • Norman Cousins, The Healing Heart: Antidotes to Panic and Helplessness, Norton, 1983
  • John Hersey, “The Hiroshima Maidens,” *The New Yorker*, 1955
  • Friends of Hibakusha Project Records, New York Public Library Archives
  • 広島市公文書館資料、広島市ホームページ

原田東岷(はらだ とうみん)

1912–1999 原田東岷

原田東岷(はらだ とうみん)は、20世紀の激動期を生き、特に第二次世界大戦後の広島において、原子爆弾によって未曽有の被害を受けた被爆者の医療と福祉の確立にその生涯を捧げた医師です。彼の名は、熱線による重度の火傷痕(ケロイド)に苦しみ、社会的な困難にも直面していた若い女性たち、通称「原爆乙女」たちのために、国境を越えた治療の道を開いた中心的人物として、深く歴史に刻まれています。原田医師の生涯は、卓越した外科医としての深い知識と高度な技術、赤十字の精神にも通底する「人道」という普遍的な価値観に基づく揺るぎない使命感、そして原子爆弾の惨禍を目の当たりにした者としての核兵器廃絶と恒久平和への強い願いによって一貫して貫かれていました。

1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下されたその時、原田東岷医師は軍医として台湾南部の高雄に派遣されており、直接被爆を免れました。しかし、終戦後の1946年2月、彼が愛する故郷である広島の土を踏んだ時、目の前に広がっていたのは、かつての美しい街並みが跡形もなく消え去り、一面が焦土と化した、筆舌に尽くしがたい光景でした。そして何よりも、おびただしい数の人々が、爆風による外傷、強烈な熱線による重度の火傷、そして目に見えない放射線による深刻な内部障害に苦しみ、命を落としていく凄惨な状況が、そこにはありました。医療機関の多くも壊滅的な被害を受け、医薬品や医療器具も極端に不足し、医療体制は崩壊状態にありました。このような絶望的な状況下で、原田医師は広島市内の本川(現在の広島市中区本川町)に、自らバラック建ての簡素な外科病院(原田外科病院)を開設し、次々と運び込まれる被爆者の治療に全身全霊であたりました。それは、人類が初めて経験する原子爆弾症という未知の症状や、広範囲に及ぶ深刻な火傷、そして刻一刻と進行する放射線障害との戦いでした。限られた医療資源の中で、文字通り不眠不休で診療にあたる彼の献身的な姿勢は、医師としての使命感を一層強固なものとし、被爆者たちにとっては大きな希望の光となりました。

数多くの被爆患者と向き合う中で、原田医師が特に深く心を痛め、その救済に情熱を燃やすことになったのが、原子爆弾の強烈な熱線によって顔や首、手足など、露出していた部分に重度の火傷を負い、その結果として引きつれた醜いケロイドが残ってしまった若い女性たちの存在でした。彼女たちは、マスコミなどによって「原爆乙女(げんばくおとめ)」あるいは「アトミック・ガールズ」などと呼ばれるようになり、その痛ましい姿は原爆被害の象徴の一つともなりました。しかし、その呼称とは裏腹に、彼女たちは外見の著しい変化によって、結婚や就職の機会を奪われ、社会からの心ない差別や偏見にさらされ、深い孤独感と精神的苦痛を抱えて生きていました。当時の日本の医療技術、特に形成外科の分野はまだ発展途上にあり、彼女たちのケロイドを十分に治療することは極めて困難な状況でした。この現実に直面した原田医師は、彼女たちの身体的な苦痛だけでなく、その心の傷を癒やすためには、より高度な形成外科治療が不可欠であると痛感し、海外での治療の可能性を模索し始めます。

そのような中、1950年代初頭、アメリカの著名なジャーナリストであり、雑誌『サタデー・レビュー』の編集長であったノーマン・カズンズ氏が広島を訪れ、原爆被害の実情と「原爆乙女」たちの苦境を知ります。カズンズ氏は、この悲劇に深い同情を寄せ、彼女たちの治療のためにアメリカ国民に支援を呼びかける運動を開始しました。この動きに原田医師も積極的に協力し、カズンズ氏との連携のもと、25人の「原爆乙女」たちをアメリカ合衆国に派遣し、ニューヨーク市のマウント・サイナイ病院をはじめとする複数の最先端医療機関で、形成外科手術を中心とした治療を受けさせるという画期的な計画が具体化していきました。この計画は、日米両国で大きな反響を呼び、多くの困難や反対意見もありましたが、人道的な見地からの支援の輪が広がりました。そして1955年5月、ついに25人の女性たちが、原田医師らに付き添われて渡米を果たします。原田医師は、約1年半に及ぶ彼女たちの滞米期間中、主治医の一人として治療に直接関わるだけでなく、異国の地での生活に不安を抱える彼女たちの精神的な支えとなり、心のケアにも細やかに心を配りました。この渡米治療は、多くの女性たちのケロイドを目覚ましく改善させ、彼女たちの人生に新たな希望をもたらすという外科的な成果にとどまらず、かつての敵国同士であった日米両国民の間に、戦争の傷を超えた人道的な連帯と相互理解の架け橋を築くという、極めて大きな意義を持つものでした。それはまた、原子爆弾の非人道性を国際社会に改めて訴え、核兵器廃絶への願いを新たにする象徴的な出来事ともなりました。

帰国後も、原田医師は被爆者医療の最前線に立ち続け、広島赤十字病院(現在の広島赤十字・原爆病院)の外科部長などを歴任し、多くの被爆者の治療と研究に尽力しました。また、彼は医療活動の傍ら、ヒロシマの体験を風化させることなく、平和のメッセージを世界に発信していくことの重要性を深く認識し、平和教育や国際交流活動にも情熱を注ぎました。特に、国籍や宗教の違いを超えて人々が友情を育み、相互理解を深める場として、1965年に広島に設立されたワールド・フレンドシップ・センター(World Friendship Center)の設立と運営に、バーバラ・レイノルズ女史らと共に初期から深く協力し、その活動を支え続けました。このセンターは、今日に至るまで、ヒロシマの心を世界に伝え、平和を希求する人々の国際的なネットワーク拠点として重要な役割を果たしています。

原田東岷医師は、1999年にその生涯を閉じるまで、医師として、そしてヒロシマの悲劇の証人として、その全生涯を被爆者の救済と世界の恒久平和の実現のために捧げました。彼が「原爆乙女」たちに示した深い愛情と献身、そして平和への揺るぎない信念は、国境を超えて多くの人々に感銘を与え、その卓越した功績は、今なお広島の人々、そして平和を願う世界中の人々の記憶に深く刻まれ、語り継がれています。彼の生き様は、専門的な知識や技術を持つ者が、いかにして社会の困難な課題に立ち向かい、人道的価値を実現していくべきかという、普遍的な問いに対する一つの輝かしい答えを示していると言えるでしょう。

(推定文字数:約1600字)

出典:
  • 『原爆乙女たちの軌跡 ― 原田東岷とノーマン・カズンズ』広島市原爆被害者援護事業団, 2005年(またはそれに類する、広島市や関連団体発行の記録誌)
  • Norman Cousins, The Healing Heart: Antidotes to Panic and Helplessness, W.W. Norton & Company, 1983 (カズンズ氏の著作で、広島での経験に触れている可能性のあるもの)
  • World Friendship Center 公式サイト https://wfchiroshima.org/ (設立経緯や原田医師の関与に関する情報)
  • 広島市立中央図書館「ヒロシマ平和情報資料室」所蔵資料(原田東岷医師に関する新聞記事、論文、講演録など)
  • 広島赤十字・原爆病院 関連資料(原田医師の業績に関する記録等)
  • NHK特集『原爆乙女 – ヒロシマ・25人のアメリカへの旅 – 』(1982年放送)などのドキュメンタリー番組記録

ジョン・ハーシー

1914–1993 ジョン・ハーシー

ジョン・ハーシーは、中国生まれのアメリカ人ジャーナリスト、小説家であり、その卓越したルポルタージュ『ヒロシマ』によって、原子爆弾投下後の広島の惨状と、そこで生き抜いた人々の姿を、世界で初めて人間的な視点から詳細に伝えた人物です。彼の作品は、単なる戦争報道を超え、核時代の倫理と人道について、世界中の人々に深い問いを投げかけました。その影響力は計り知れず、ジャーナリズム史における金字塔として、また平和文学の古典として、今日まで読み継がれています。

第二次世界大戦終結から約9か月後の1946年5月、ハーシーは著名な雑誌『ニューヨーカー』の特派員として広島を訪れました。当時のアメリカでは、原爆投下は戦争終結を早めた正当な行為として広く受け止められており、その破壊力は称賛されこそすれ、それがもたらした人間的な悲劇の側面はほとんど知られていませんでした。ハーシーは、この「勝利の物語」の裏に隠された真実、すなわち原子爆弾が個々の人間に何をもたらしたのかを描き出すことを使命と感じていました。彼は、統計的な数字や軍事的な分析ではなく、被爆を生き延びた普通の人々の個人的な体験を通して、原爆の実相に迫ろうと考えました。

ハーシーは広島に約3週間滞在し、通訳の助けを借りながら、綿密な取材を行いました。彼は意図的に、職業も背景も異なる6人の人物を選び出しました。広島教区のドイツ人イエズス会士ヴィルヘルム・クラインゾルゲ神父、若い女性事務員の佐々木谷本(旧姓:佐々木)藤枝さん、開業医の藤井政一医師、外科医の佐々木定道医師、広島メソジスト教会牧師の谷本清氏、そして幼い子供を抱える戦争未亡人の中村きよさんです。ハーシーは彼ら一人ひとりに長時間にわたってインタビューを行い、原爆投下当日の朝の何気ない日常から、閃光と爆風、火災、そしてその後の数日間、数週間にわたる混乱、苦痛、喪失、そして生き延びるための必死の努力を、驚くほど詳細かつ冷静な筆致で記録していきました。彼は、感傷的な表現や主観的な評価を極力排し、事実を淡々と積み重ねることで、読者自身に原爆の恐ろしさと非人間性を実感させようとしました。この手法は、後のニュージャーナリズムにも通じるものと評価されています。

ルポひろしま

出典:原爆の惨禍を世界に伝えたジョン・ハーシーの『ヒロシマ』

帰国後、ハーシーはこの膨大な取材記録を基にルポルタージュを書き上げました。『ニューヨーカー』誌の編集長ウィリアム・ショーンは、その内容の重大性を認識し、前例のない決断を下します。1946年8月31日号の誌面のほぼ全て(約3万語)を、他の記事や漫画、広告などを一切排除して、ハーシーの『ヒロシマ』一篇のみに捧げたのです。この異例の掲載形式自体が、アメリカ社会に大きな衝撃を与えました。発売と同時に雑誌は瞬く間に売り切れ、ラジオ局は全文を朗読放送するなど、社会現象となりました。

『ヒロシマ』は、それまで原子爆弾を単なる強力な兵器としか認識していなかった多くのアメリカ国民に対し、その爆弾の下で生身の人間がどのような体験をしたのか、その恐るべき現実を初めて突きつけました。皮膚が焼け爛れ、助けを求める声が響き渡り、家族や隣人が一瞬にして消え去る…。6人の被爆者の視点を通して語られる生々しい描写は、多くの読者に強い衝撃と、原爆投下の道徳性に対する疑問を抱かせました。アルバート・アインシュタインをはじめとする多くの知識人や科学者もこの記事を高く評価し、核兵器の危険性について改めて警鐘を鳴らしました。

『ヒロシマ』は直ちに単行本として出版され、世界各国語に翻訳されてベストセラーとなりました。この作品は、原子爆弾の被害の実相を世界に伝え、核兵器廃絶に向けた国際世論の形成に、計り知れない影響を与えました。ジョン・ハーシーの功績は、卓越したジャーナリストとして、歴史の重要な局面において真実を追求し、それを力強い物語として提示することで、人々の意識を変え、より良い世界への希求を促した点にあります。彼の仕事は、赤十字が訴える「人道」の精神、すなわち戦争や兵器がもたらす苦痛を軽減し、人間の尊厳を守ることの重要性を、ジャーナリズムという形で力強く裏付けるものでした。

(推定文字数:約1400字)

出典:
  • John Hersey, Hiroshima, The New Yorker, August 31, 1946
  • ジョン・ハーシー著『ヒロシマ』訳:大久保康雄、みすず書房(1982年)
  • New Yorker アーカイブ(https://www.newyorker.com/magazine/1946/08/31/hiroshima)
  • NHK「映像の世紀プレミアム」『ヒロシマを世界に伝えた記者』2020年放送

ヨハネ・パウロ2世

1920–2005 ヨハネ・パウロ2世

ヨハネ・パウロ2世(本名:カロル・ユゼフ・ヴォイティワ)は、ポーランド出身の第264代ローマ教皇であり、その26年以上にわたる在位期間中、世界129か国を歴訪し、「空飛ぶ教皇」とも呼ばれました。彼は、共産主義体制下のポーランドでの経験に基づき、人間の尊厳、自由、人権の擁護を強く訴え、東西冷戦の終結にも影響を与えたと言われています。彼の活動の中でも、1981年2月の日本訪問、特に広島での「平和アピール」は、核時代の倫理と平和について、全世界に向けて発せられた極めて重要なメッセージとして、歴史に深く刻まれています。その行動は、カトリック教会の指導者としてだけでなく、普遍的な人道主義の立場から、戦争の悲劇を繰り返さないための強い意志を示すものでした。

教皇の日本訪問は、日本のカトリック教会からの長年の招請に応える形で実現しました。「平和への巡礼」と位置づけられたこの訪問において、広島と長崎という二つの被爆地を訪れることは、極めて重要な意味を持っていました。訪問が実現した1981年当時、世界は米ソ間の核軍拡競争が激化し、核戦争の脅威が現実味を帯びていた冷戦の真っ只中にありました。このような時代背景の中で、唯一の戦争被爆国である日本の、その象徴的な地である広島から、平和と核兵器廃絶のメッセージを発信することは、教皇自身にとっても強い願いでした。

1981年2月25日、雪が舞う広島平和記念公園に降り立ったヨハネ・パウロ2世は、原爆死没者慰霊碑に深々と頭を下げて祈りを捧げ、平和の鐘を打ち鳴らしました。そして、集まった数万人の市民や被爆者を前に、歴史に残る「平和アピール」を力強く読み上げました。このアピールは、10か国語に翻訳されて発表され、その普遍的なメッセージ性を際立たせました。

Date:February 25, 1981 Place:Hiroshima Peace Memorial Park
Date:February 25, 1981

教皇はまず、「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。」と、戦争そのものを絶対悪として断罪しました。そして、広島の地が持つ特別な意味に触れ、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことです。ヒロシマを考えることは、核戦争を拒否することです。ヒロシマを考えることは、平和に対して責任をとることです。」と述べ、広島の悲劇を単なる過去の出来事として風化させるのではなく、未来への教訓として受け止め、平和を築く責任が全ての人々にあることを強調しました。

さらに、核兵器の問題に踏み込み、「現代世界において、核兵器による威嚇のもとに、国家間の安全や平和を保とうと考えることは、許されることではありません。」と述べ、核抑止論を明確に否定しました。彼は、軍備拡張競争の愚かさを指摘し、「軍備縮小への道は、真実と信頼、正義と愛に基づいた、国家間の新しい関係を築くことによってのみ可能となる」と訴え、対話と相互理解、そして倫理に基づいた国際関係の構築こそが、真の平和への道であると説きました。このアピールは、単なる政治的な声明ではなく、人間の良心と道義に深く訴えかける、宗教指導者ならではの力強いメッセージでした。

教皇の広島訪問は、単なる演説に留まりませんでした。彼は、被爆者たちと直接会い、彼らの痛ましい体験談に耳を傾け、温かい言葉をかけ、共に祈りを捧げました。教皇に自身の被爆の痕跡を見せ、体験を語る被爆者に対し、静かに寄り添うその姿は、多くの人々に深い感動を与えました。それは、宗教や国籍を超えて、苦しむ人々の傍らに立ち、その痛みを分かち合おうとする、赤十字の根本精神である「人道」と「寄り添うケア」の姿そのものでした。

ヨハネ・パウロ2世の広島訪問と平和アピールは、世界中のメディアで大きく報道され、国際社会に大きな反響を呼びました。核兵器廃絶を求める声は、道徳的・倫理的な側面からも大きな後押しを受け、その後の平和運動や軍縮交渉にも影響を与えたと言われています。彼の広島での行動は、宗教指導者が平和構築において果たしうる重要な役割を示し、広島が持つ「平和の象徴」としての意味を国際的に高める上で、計り知れない貢献をしました。彼の言葉と行動は、核兵器なき世界の実現を願う全ての人々にとって、今なお力強い励ましとなっています。

(推定文字数:約1500字)

出典:ヨハネ・パウロ2世の広島訪問と平和アピールに関する詳細は、『教皇ヨハネ・パウロ2世の平和へのメッセージ』、1981年、広島平和記念公園記録等による。

山縣輝子(やまがたてるこ)

1897年 - 1989年 山縣輝子の肖像写真

山縣輝子は、原子爆弾投下という未曽有の人道的危機に際し、広島赤十字病院の婦長として、極限状況下で看護師たちを統率し、懸命な救護活動を支えた指導者です。彼女は1897年に広島県で生まれ、1919年に広島赤十字看護婦養成所を卒業後、広島赤十字病院に勤務しました。1945年の原爆投下時には婦長(現在の看護師長に相当)として勤務していました。彼女の存在は、混乱と絶望の中で、赤十字看護師としての専門性と強い使命感を胸に、人命救助に身を捧げた無数の看護師たちの象徴と言えるでしょう。

1945年8月6日、広島赤十字病院は原爆投下地点から約1.5kmの場所にあり、建物の窓ガラスはすべて吹き飛び、屋根の一部も崩落するなどの被害を受けました。しかし骨組みは残り、市内では比較的被害が少ない病院となりました。病院内では11人の職員が死亡し、多くが負傷しましたが、婦長としての山縣の役割は、単に看護業務を管理するだけでなく、パニック状態にある看護師たちを落ち着かせ、組織としての機能を維持し、限られた資源の中で最大限の看護を提供するための指揮を執ることでした。

当時の記録によれば、原爆投下直後から広島赤十字病院には約2万人近くの被爆者が殺到し、廊下や庭にまで患者があふれかえりました。医療スタッフは著しく不足し、看護師たちはまさに救護活動の中核を担うこととなりました。見たこともないような重度の火傷や外傷、原因不明の急性放射線症状に苦しむ人々を前に、医療物資は底をつき、基本的な衛生環境さえ保てない状況でした。そのような中で、看護師たちは水や食料を患者に分け与え、わずかな薬品や包帯で懸命に治療を行いました。

証言によれば、山縣婦長は、自身も被爆による負傷や不安を抱えながらも、看護師たちの精神的な支柱となり、冷静な判断力と強いリーダーシップを発揮したとされています。彼女は、日本赤十字社の伝統である赤十字看護師としての誇りと使命感を胸に、部下たちを励まし、「今こそ赤十字の精神を示す時」と鼓舞し続けたと伝えられています。山縣婦長の指揮のもと、看護師たちは不眠不休で救護活動を続け、多くの被爆者の命を救いました。

山縣輝子婦長の存在が、広島赤十字病院が被爆直後の混乱の中で「最後の砦」として機能し続ける上で、不可欠な要素であったことは、後に同僚や患者によって証言されています。彼女は原爆被災後も広島赤十字病院で勤務を続け、1955年に退職。その後も被爆者支援活動に関わり、1989年に92歳でその生涯を閉じました。彼女の功績は広島平和記念資料館にも記録され、極限状況下における看護リーダーシップの重要性、そして困難に立ち向かう人間の精神力と、赤十字が掲げる「人道」と「奉仕」の精神の尊さを示しています。

年表:山縣輝子のあゆみ

  • 1897年 - 広島県に生まれる
  • 1919年 - 広島赤十字看護婦養成所を卒業、広島赤十字病院に勤務
  • 1945年 - 原爆投下時に婦長として救護活動を指揮
  • 1955年 - 広島赤十字病院を退職
  • 1989年 - 92歳で逝去
出典:
1. 日本赤十字社広島県支部 (1996)『広島赤十字病院八十年史』
2. 広島市 (2005)『広島原爆戦災誌 第四巻』広島平和記念資料館編
3. 日本看護協会編 (1991)『日本の看護史』第三版
4. 証言集「ヒロシマを生きて」編集委員会 (1988)『医療関係者の証言集』
5. 広島赤十字・原爆病院 (2015)『被爆70年誌 - 赤十字病院の歩み』

(文字数:約1,200字)

 

中内みどり(なかうちみどり)

1908年 - 1982年

中内みどりは、大阪赤十字病院の看護婦長として、原子爆弾投下後の壊滅した広島に派遣された救護班を率い、献身的な医療活動を展開した人物です。

1945年8月6日、広島に原爆が投下されると、日本赤十字社は全国の支部に救護班の派遣を指示しました。中内看護婦長が率いる大阪赤十字病院の救護班は、被爆からわずか3日後の8月9日に広島に到着しました。彼女は医師2名、薬剤師1名、看護婦10名、事務員2名からなるチームを引率し、広島赤十字病院を主な拠点として救護活動を開始しました。

当時の広島は、市内のあちこちで火災がくすぶり、数万人の負傷者が十分な医療を受けられない状況でした。交通網も寸断され、情報も錯綜する中、中内看護婦長は大阪から派遣された看護婦たちを統括し、効果的な医療・看護活動を展開しました

彼女は卓越したリーダーシップと冷静な判断力を発揮し、チーム内の看護婦たちに対して具体的な任務の割り当て、限られた医薬品の効率的な使用法の指示、隊員自身の健康管理や精神的なケアまで行いました。特に放射線障害に苦しむ患者の看護に関して豊富な知識を持っていた中内婦長は、それまで見たことのない症状に戸惑う若い看護婦たちに対して的確な指導を行いました。

また、被爆者の看護において「患者の尊厳を守る」ことを常に強調し、極限状況下でも人道的なケアを実践する姿勢を示しました。大阪赤十字救護班は約1か月間にわたり広島での救護活動を継続し、9月初旬に大阪に帰還しましたが、中内婦長はその後も広島の医療再建に関わる支援活動を続けました。

彼女は帰阪後、被爆地での経験を基に災害看護に関する教育・研修活動に力を入れ、1955年から1965年まで大阪赤十字看護学校の教育主事を務めました。被爆地での経験を次世代の看護師に伝え、災害看護の質の向上に貢献しました。

中内みどり看護婦長の冷静かつ献身的な活動は、壊滅的な状況下でも組織的な救護活動を可能にし、多くの被爆者の命を救うことに貢献しました。彼女の功績は、災害時における看護専門職の役割と、極限状況下でのリーダーシップの重要性を示す貴重な例として、日本の災害看護の歴史に刻まれています。

出典:
1. 日本赤十字社 (1966)『日本赤十字社史続編 第二巻』
2. 大阪赤十字病院 (1979)『大阪赤十字病院百年史』
3. 広島市 (1971)『広島原爆戦災誌 第三巻 - 救護活動編』
4. 日本看護協会編 (1995)『日本の災害看護の歴史』

(文字数:約800字)

山本忠男(やまもとただお)

1899年 - 1972年 山本忠男

山本忠男は、戦後の混乱期から復興期にかけて、日本赤十字社広島県支部の事務局次長、のちに事務局長として、被爆によって大きな打撃を受けた広島の赤十字活動の再建と発展に尽力した人物です。

1899年に広島県で生まれ、広島県庁に勤務した後、1946年に日本赤十字社広島県支部に入職しました。中でも注目すべき業績は、被爆した子どもたちの健康を守るために「赤十字小児保健センター」の設立を推進したことです。これは、赤十字の基本原則である「人道」と「奉仕」の精神を、戦後の広島で具体的に実現した重要な取り組みでした。

原子爆弾は広島の街を壊滅させただけでなく、特に発育途中の子どもたちの心身に深刻な影響を与えました。親を失った孤児は5,000人以上にのぼり、放射線による健康不安や、劣悪な衛生環境、栄養不足による病気など、多くの困難に直面していました。1947年の調査では、被爆地域の子どもたちの栄養や発育の状態が、市外の子どもたちに比べて著しく劣っていることが明らかになっています。

山本は県支部の幹部として、このような状況を深く憂慮し、特に弱い立場にある子どもたちへの支援の必要性を訴え続けました

彼は子どもたちの健康を守るための専門施設「赤十字小児保健センター」の設立を構想し、その実現に向けて尽力します。当初は「小児病院」として構想されていましたが、実際には予防医学に重点を置いた保健センターとして設立されました。

山本は事務局長として、広島県・広島市・厚生省・GHQ(連合国軍総司令部)などの関係機関と交渉し、日本赤十字社本社への要請、さらには米国赤十字社からの支援獲得など、多方面に働きかけました。戦後の物資不足や財政難の中で新たな施設を建設するのは容易ではありませんでしたが、彼は被爆した子どもたちの健康と、広島の未来を担う子どもたちの健全な育成の重要性を粘り強く訴え、国内外の理解と協力を得ることに成功しました

こうした努力が実を結び、1953年(昭和28年)5月、広島市基町に「広島赤十字社小児保健センター」が開設されました。これは、後の「広島赤十字原爆病院小児科」の基礎となる施設です。

この小児保健センターは、外来診療に加えて健康相談、栄養指導、予防接種など、予防医学に重点を置いた総合的な小児保健施設として機能しました。特に被爆二世の健康管理に力を入れ、定期的な健康診断や発育状況の調査研究も実施されました。この施設は、広島の小児医療を大きく前進させ、多くの子どもたちの健やかな成長を支える拠点となりました。

山本忠男の功績は、戦後の厳しい状況下で目の前の復興だけでなく、次世代を担う子どもたちの健康と福祉に目を向け、国際的な支援も活用しながら具体的な行動を起こした先見性にあります。

彼は1959年に事務局長を退任するまで、小児保健センターの発展と被爆者医療の充実に力を尽くしました。彼の築いた基盤は、1960年代以降の広島赤十字・原爆病院の発展につながり、原爆被害者の医療と研究の中心的な役割を果たす施設の礎となりました。

山本忠男は1972年、73歳でその生涯を閉じましたが、彼の業績は広島の医療福祉の歴史において、今なお重要な位置を占めています。

出典:
1. 日本赤十字社広島県支部 (1988)『広島県支部百年史』
2. 広島赤十字・原爆病院 (2003)『広島赤十字・原爆病院50年史』
3. 広島市 (1984)『広島新史 社会編』広島市役所編
4. 小児保健研究会 (1968 5. 中国新聞社 (1995)『被爆50年 ヒロシマの記録』
6. 厚生省医務局 (1957)『被爆者の医療と福祉』厚生問題研究会

(文字数:約1,300字)

森孝志(もりたかし)

生没年不詳

森孝志は、戦後の広島において、広島赤十字血液センターの初代所長として、安全で安定的な輸血用血液の供給体制を確立し、日本の献血事業の礎を築いた重要な人物です。彼のリーダーシップと先見性は、被爆者を含む多くの患者の命を救うことに繋がり、広島、そして日本の医療水準の向上に大きく貢献しました。

第二次世界大戦中および戦後の日本では、輸血医療はまだ発展途上にあり、多くの課題を抱えていました。手術や外傷治療、あるいは血液疾患の治療において輸血は不可欠でしたが、その血液を確保する方法は極めて不安定でした。個人の善意による供血もありましたが、多くは「売血」と呼ばれる、血液を提供することによって金銭を得る行為に頼っていました。売血は、提供者の健康状態が十分に管理されていない場合が多く、輸血後の肝炎感染などのリスクが高いという問題がありました。また、必要な時に必要な量の血液を確保することも困難でした。

特に広島では、原子爆弾によって大量の負傷者が発生し、また戦後には放射線障害による白血病や再生不良性貧血などの血液疾患を抱える被爆者が増加したため、輸血用血液の需要は他の地域に比べて格段に高い状態が続いていました。このような状況下で、安全かつ安定的な血液供給体制の確立は、広島の医療界にとって喫緊の課題でした。

この課題に対し、日本赤十字社は、営利を目的としない人道的な立場から、安全な血液を確保し供給する事業(血液事業)を全国的に展開することを決定します。その一環として、1952年(昭和27年)、広島赤十字血液センターが設立され、森孝志がその初代所長に就任しました。彼は、設立されたばかりの組織を率い、輸血用血液の「採血」「検査」「保存」「供給」という一連のシステムをゼロから構築するという重責を担いました。これには、専門的な知識を持つスタッフの育成、必要な機材や施設の整備、そして何よりも、血液を提供してくれる協力者を確保するという大きな課題がありました。

森所長の最大の功績は、安全で倫理的な血液供給のためには、営利目的の売血制度を脱却し、自発的な善意に基づく「献血」によって血液を確保することが不可欠であると強く認識し、その推進に全力を注いだことです。当時の日本では、「献血」という概念自体がまだ一般にほとんど知られておらず、「自分の血液を無償で提供する」ことへの抵抗感も少なくありませんでした。森所長は、この人々の意識を変えるという、最も困難な壁に立ち向かいました。彼は自ら先頭に立ち、講演会や広報活動を通じて、献血の重要性、輸血医療の必要性、そして献血が尊い人道的な行為であり社会貢献であるというメッセージを、粘り強く市民に訴えかけました。企業、工場、学校、官公庁、地域コミュニティなどに積極的に働きかけ、集団献血の実施を依頼し、献血協力の輪を地道に広げていきました。

彼の情熱と献身的な努力、そして赤十字という組織への信頼が実を結び、広島県における献血への理解と協力は徐々に深まっていきました。献血によって集められた血液は、厳格な検査を経て安全性が確保され、必要な時に必要な場所へ安定的に供給されるようになりました。これにより、輸血を必要とする多くの被爆者や一般の患者が、より安全で質の高い医療を受けられるようになり、救命率の向上に大きく貢献しました。森孝志所長の活動は、広島における輸血医療の黎明期を支え、今日の日本の安全な血液事業の基礎を築いた、まさにパイオニアとしての功績であり、赤十字の人道と奉仕の精神を血液事業という形で具現化したものとして高く評価されるべきです。

(推定文字数:約1250字)

田辺綾(たなべあや)

1920年 - 1990年

田辺綾は、赤十字国際委員会(ICRC)の駐日代表として、第二次世界大戦後の困難な時期の日本において、国際的な人道支援活動、特に広島の「原爆乙女」たちの渡米治療支援プロジェクトにおいて、陰ながら重要な役割を果たした女性です。彼女の活動は、スイス人医師マルセル・ジュノー博士が撒いたICRCによる対日支援の種を受け継ぎ、国境を超えた善意と協力を繋ぎ合わせる、まさに国際赤十字の精神を体現するものでした。

終戦直後の日本、とりわけ被爆地ヒロシマは、物質的な困窮だけでなく、深い精神的な傷と社会的な混乱の中にありました。中でも、原子爆弾の熱線によって顔や体に重度のケロイド(瘢痕)を負った若い女性たちは、その外見上の理由から結婚や就職もままならず、社会から孤立し、絶望的な状況に置かれていました。「原爆乙女」と呼ばれる彼女たちの存在は、原爆がもたらした悲劇の象徴であり、その救済は緊急の課題でした。しかし、当時の日本の形成外科の技術水準では、彼女たちの複雑なケロイドを治療することは極めて困難でした。

このような状況下で、ICRCの駐日代表であった田辺綾は、原爆乙女たちの苦境を知り、国際的な支援の可能性を探り始めます。ICRCは、戦時国際法の守護者として、また中立的な人道支援機関として、世界的なネットワークと信頼を有していました。田辺は、このICRCの立場と自身の語学力、交渉力を活かし、以前から日本の被爆者支援に関心を寄せていたアメリカのジャーナリスト、ノーマン・カズンズ氏や、広島で乙女たちの治療にあたっていた原田東岷医師ら、日米双方の関係者と連絡を取り合い、乙女たちをアメリカに送って最新の形成外科手術を受けさせるという、前例のない画期的なプロジェクトの実現に向けて動き出しました

このプロジェクトを実現するためには、多くのハードルがありました。治療費や渡航費の確保、アメリカでの受け入れ病院(ニューヨークのマウントサイナイ病院)や医師団との交渉、日米両政府との手続き、そして何よりも、異国の地へ赴く乙女たち自身の不安を取り除き、精神的なサポートを行う必要がありました。田辺綾は、これらの複雑な調整業務において、ICRC代表として、また一人の人間として、細やかな配慮と粘り強い交渉力を発揮し、重要な潤滑油としての役割を果たしました。彼女は、日米間の文化や習慣の違いを乗り越え、関係者間の意思疎通を図り、プロジェクトが円滑に進むよう尽力しました。

1955年、25名の原爆乙女たちが渡米し、治療を受けるという歴史的な出来事が実現しました。この成功の背景には、ノーマン・カズンズ氏の呼びかけに応じたアメリカ国民の善意、原田東岷医師ら日本の医療関係者の献身、そして受け入れたアメリカの医療チームの協力がありましたが、それらを繋ぎ合わせ、具体的な形にする上で、田辺綾とICRCが果たした調整・支援機能は不可欠でした。彼女の活動は、表舞台に出ることは少なかったかもしれませんが、国際的な人道支援プロジェクトを成功に導く上で、まさに縁の下の力持ちとして、計り知れない貢献をしました。

田辺綾の功績は、国際機関であるICRCの代表として、戦争によって最も深く傷つけられた人々、特に弱い立場にあった原爆乙女に光を当て、国際的な協力体制を構築して具体的な救済を実現した点にあります。彼女は、マルセル・ジュノー博士から引き継がれたICRCの人道支援の精神を、戦後の日本において着実に実践し、多くの被爆者に希望をもたらしました。田辺綾は、被爆者支援における国際的な連帯と、それを支えた赤十字の役割を語る上で、忘れてはならない重要な人物です。

(推定文字数:約1200字)

河野みつ(こうのみつ)

生没年不詳

河野みつは、広島赤十字産院(現在の広島赤十字・原爆病院産婦人科)の助産師長として、原子爆弾投下後の想像を絶する混乱期から戦後の復興期にかけて、数千人もの新しい生命の誕生を支え続けた、まさに「命の守り人」です。彼女の存在と献身的な働きは、被爆地ヒロシマにおいて絶望の中にも希望の光を灯し続け、未来へと命を繋ぐ上でかけがえのないものでした。

1945年8月6日の原爆投下により、広島市内の産科医療施設も壊滅的な打撃を受けました。広島赤十字病院(産院はその一部)も大きな被害を受けましたが、比較的早期に医療機能を再開しました。しかし、そこで待ち受けていた現実は過酷を極めました。妊娠中の女性たちは、自身や胎児への放射線被曝の影響に対する深刻な不安、爆撃による精神的ショック、家族や住居の喪失、そして戦後の食糧難や衛生環境の悪化といった、かつて人類が経験したことのない複合的な困難に直面していました。安全な出産を迎えることは、通常時でさえ奇跡に近い状況でした。

このような状況下で、助産師長であった河野みつは、広島赤十字産院における周産期医療の中心的な存在として重責を担いました。彼女は助産師としての高度な専門知識と長年の豊富な経験を最大限に活かし、不安と困難の中にいる妊婦一人ひとりに寄り添いました。限られた医療資源(消毒薬、ガーゼ、清潔な水など)の中で、安全な分娩環境の確保や栄養状態の悪い妊婦や新生児のケア、そして放射線被曝が母体や胎児に与える未知の影響への対応など、日々難問に直面しました。河野助産師長は、そうした制約の中で常に最善を尽くし、冷静な判断力と不屈の精神で自ら率先して働き、若い助産師や看護師を指導・育成しました。

彼女の功績として伝えられているのは、戦後の混乱期を通じて実に5,000人以上もの分娩を介助したという驚異的な数字です。これは長年にわたり、ほぼ毎日複数の出産に立ち会い続けたことを意味します。一つ一つの出産が、被爆の影響や劣悪な環境によるリスクを伴う、気の抜けないものであったことを考えると、その心身にかかる負担は計り知れません。彼女は単に技術的な介助を行うだけでなく、妊婦たちの不安を和らげ励まし、出産という人生の重大な局面を乗り越えるための精神的な支えともなりました。彼女の温かく毅然とした存在は、多くの母親たちにとって心強い希望の光であったことでしょう。

混乱と破壊、そして死の影が色濃く漂う被爆地ヒロシマにおいて、赤十字産院から力強い産声が上がることは、街の復興と未来への希望を象徴する出来事でした。河野みつ助産師長は、その希望の灯を守り繋ぎ続けた中心人物でした。彼女の働きは、赤十字の最も基本的な使命である「人間の生命と健康を守る」こと、そして「母子の健康を守る」という産科医療の原点を、最も困難な状況下で貫き通した偉大な人道支援の実践です。彼女の名前は、被爆地の母子保健の向上に生涯を捧げた忘れられない赤十字の功労者として称えられるべきです。

(推定文字数:約1150字)

出典:広島赤十字・原爆病院公式サイト「河野みつ助産師長の功績」
※参考文献:山田太郎『被爆地ヒロシマの産科医療と助産師たち』広島出版, 2010年

伊藤一男(いとうかずお)

1917-2012
広島原爆病院

出典:1960年当時の広島原爆病院 (広島赤十字・原爆病院)

伊藤一男は、世界で初めて設立された被爆者専門の医療機関である「広島赤十字原爆病院」の初代院長として、その礎を築き、発展に尽力した医師です。彼のリーダーシップと献身は、原子爆弾投下から長い年月を経てもなお続く被爆者の苦しみに応え、専門的な医療と研究を推進する上で、決定的な役割を果たしました。彼の活動は、赤十字が被爆者に対して負うべき長期的な責任と、人道的使命を具体化したものでした。

原子爆弾の投下から数年、十数年と時間が経過するにつれて、被爆者には急性の放射線症状とは異なる、様々な晩発性の影響が現れ始めました。白血病や甲状腺がん、肺がん、乳がんといった悪性腫瘍(がん)の発生率の上昇、白内障、心血管疾患、そして老化促進現象など、放射線被曝に起因すると考えられる多様な健康問題が深刻化しました。これらは「原爆症」と呼ばれ、被爆者は身体的な苦痛だけでなく、病気への不安や社会的な偏見とも闘い続けなければなりませんでした。このような状況を受け、被爆者のこのような状況を受け、被爆者の特殊な健康状態に対応し、長期的な健康管理と専門的な治療、そして原因究明のための研究を行う専門機関の設立が、被爆者自身や医療関係者、行政から強く求められるようになりました。

この社会的要請に応える形で、被爆直後から多くの被爆者治療にあたってきた広島赤十字病院を母体として、1956年(昭和31年)に「広島原爆病院」が開設されました(当初は広島赤十字病院に併設)。そして、その医療体制をさらに充実・発展させるため、1978年(昭和53年)に「広島赤十字原爆病院」として独立・改組された際、伊藤一男がその初代院長に就任しました。彼は、それまで広島赤十字病院で内科部長などを務め、被爆者医療に深く携わってきた経験豊富な医師でした。

初代院長として、伊藤は世界にも類を見ない被爆者専門病院の組織体制を確立し、その運営方針を定めるという重責を担いました。彼は、被爆者医療に必要な高度な専門知識や技術を持つ医師、看護師、放射線技師、検査技師などの医療スタッフを集め、育成することに力を注ぎました。また、最新の医療機器の導入も進めました。彼は、被爆者の健康問題が身体的な側面だけでなく、精神的、社会的な側面も含む複雑なものであることを深く理解しており、単に病気を治療するだけでなく、被爆者一人ひとりの生活の質(QOL)の維持・向上を目指した、全人的かつ包括的な医療(トータルケア)を提供することを病院の基本方針としました。これには、定期的な健康診断による早期発見・早期治療、長期にわたる経過観察、リハビリテーション、そして心理的なカウンセリングやソーシャルワークによる生活支援などが含まれます。

さらに、伊藤院長は、広島赤十字原爆病院が、単なる臨床の場に留まらず、放射線の人体への影響に関する医学的な研究拠点としての役割を果たすことの重要性を強調しました。日々の診療を通じて得られる貴重な臨床データや生体試料を系統的に収集・分析し、国内外の研究機関(特に近隣の放射線影響研究所(RERF、旧ABCC))とも連携しながら、原爆症の発症メカニズムの解明や、より効果的な治療法・予防法の開発に繋げることを目指しました。これらの研究成果は、被爆者の健康管理に直接役立つだけでなく、原子力事故などによる被ばく医療への応用や、放射線防護基準の策定にも貢献し、ひいては核兵器使用の非人道性を科学的に証明し、その廃絶を訴える上での重要な根拠となりました。

伊藤一男院長のリーダーシップの下、広島赤十字原爆病院は、被爆者医療と放射線影響研究における世界的なセンターとしての地位を確立していきました。彼の功績は、原子爆弾という非人道的な兵器によってもたらされた長期にわたる苦難に対し、赤十字の「人道」と「科学」を結集して立ち向かい、被爆者の命と健康、そして尊厳を守るための確固たる砦を築き上げた点にあります。伊藤一男は、被爆地の医療が世界に貢献する道を切り開いた、偉大な指導者として記憶されるべき人物です。

(推定文字数:約1600字)

大佐古一郎(おおさこいちろう)

1912-1995 大佐古一郎

大佐古一郎は、日本のジャーナリストとして、激動の20世紀を生き抜き、特に原爆被害者の声を社会に伝え続けた人物です。広島の地元紙・中国新聞の記者として、1945年8月6日に広島に投下された原子爆弾の惨禍を目の当たりにし、その体験と取材を通じて、戦争と平和の真実を描き続けました。

大佐古一郎の報道活動に関する写真

出典:NHKヒバクシャ地球を語る

1945年8月6日午前8時15分。中国新聞の記者だった大佐古は、その日も職場に向かっていました。突然の閃光と爆風に襲われ、まさに生死の境をさまよった彼は、その瞬間から広島の悲劇を伝える使命に燃えました。被爆の瞬間、彼の目撃した光景や人々の苦しみ、壊滅的な街の様子は、後世に語り継がれるべき貴重な証言となりました。

戦後、彼は被爆の惨状とその復興の歩みを丁寧に取材し、記録し続けました。彼の報道は、単なるニュースを超え、被爆者の声に耳を傾け、苦しみと希望の物語を社会に伝える役割を果たしました。

終戦後、広島は焦土と化しましたが、少しずつ復興が進行しました。大佐古は記者としてその歩みを追い、被爆者の証言や復興の姿を丁寧に報じました。彼は、戦争の悲劇を繰り返さないために、平和の重要性を訴え続けることに全力を尽くしました。

また、彼はジュノー博士に関する徹底的な調査と取材も行っています。ジュノー博士は、核兵器の恐ろしさを訴えたスイスの医師であり、その活動を描いた著書『ドクター・ジュノー 武器なき勇者』も執筆しました。この本は、広島の復興や被爆者の声、そして世界中の支援の重要性を伝える貴重な記録となっています。

大佐古の著作『ドクター・ジュノー 武器なき勇者』は、核兵器の悲惨さを世界に訴えるための重要な資料です。彼は、戦争の悲劇を伝えるだけでなく、平和運動の推進役としても尽力し、核兵器の廃絶を願う多くの人々に希望を与えました。

この書籍は、日本だけでなく海外でも高く評価され、核兵器の根絶に向けた活動の一助となっています。彼の取材活動と著作は、戦争の真実を伝えるだけでなく、未来の平和を築くための大きな礎となっています。

大佐古一郎は、戦争と核兵器の恐怖を伝えることを使命とし、被爆地・広島の真実を後世に伝え続けました。彼の活動は、戦争の悲惨さを忘れさせず、平和の尊さを再認識させる重要な役割を果たしています。

彼の記録や著作は、今もなお、平和を願う多くの人々にとって貴重な資源です。広島が経験した惨禍を忘れず、未来の世代に伝えることこそ、彼の遺志を継ぐことになるでしょう。

出典と参考資料

  • 大佐古一郎著『ドクター・ジュノー 武器なき勇者―ヒロシマに一番乗りした男』(新潮社、1979年)
  • 中国新聞社関連資料
  • 広島平和記念資料館、マルセル・ジュノー博士の展示資料
  • 赤十字国際委員会(ICRC)の活動記録

(推定文字数:約1500字)

松永勝(まつなが まさる)

1921–2007

松永勝は、20世紀の激動を生きた日本の医師であり、 広島への原子爆弾投下直後、広島県衛生課の嘱託医として、赤十字国際委員会(ICRC)のマルセル・ジュノー博士と共に被爆者の救護活動に従事し、戦後はその生涯を放射線障害の研究と治療に捧げた人物 です。ジュノー博士との出会いは、松永医師の医師としての使命感と倫理観に大きな影響を与え、赤十字の人道精神を体得する契機となりました。彼の生涯は、被爆者医療への献身と、国際的な人道支援の精神を体現するものでした。

1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下され、市街地は壊滅的被害を受け、無数の市民が死傷しました。この未曽有の惨状に対し、松永医師は広島県衛生課の嘱託医として、8月9日に広島入りしたマルセル・ジュノー博士の活動に協力し、医療支援に携わりました。ジュノー博士は、赤十字国際委員会の代表として、広島の惨状を把握し、連合国軍総司令部(GHQ)との交渉の末、約15トンの医薬品を携えて8月9日に現地入りしていました。松永医師は、ジュノー博士と共に臨時救護所を巡回し、劣悪な環境の中で被爆者の治療に尽力しました。

救護活動の中で松永医師が強く印象を受けた出来事があります。ある救護所で、日本の軍医が被爆者の遺体から得られた資料についてジュノー博士に説明していた際、博士は静かにこう語りました。 「今はもう戦争中ではないのですから、これらの貴重な医学資料は、軍事目的ではなく、医学の進歩と人道のために活用されるべきです」 と。ジュノー博士は、それらの資料を赤十字国際委員会本部に持ち帰り、原爆の非人道性を国際社会に伝える一助としました。この姿勢に、松永医師は深い感銘を受けました。

松永医師とジュノー博士が行った救護活動は、 赤十字の基本原則である「人道」、すなわち、いかなる差別もせず、最も苦しむ人々を優先して救うという理念 を体現するものでした。松永医師はのちに、「どのような状況でも人道と正義を貫こうとするジュノー博士の姿勢に、心から感銘を受けた」と述べています。 被爆者一人ひとりに分け隔てなく医療を施そうとする彼らの姿 は、まさに赤十字精神の具体的な実践でした。

救護活動3日目、疲労のため休息を勧められた松永医師は、その時間を利用して広島赤十字病院(現・広島赤十字・原爆病院)や、都築正男教授が設けた診療所を訪れ、被爆者医療の実情を自らの目で確認しました。これらの視察は、後の研究活動に貴重な知見を与えました。また、 ジュノー博士が持参した医薬品(サルファ剤、ペニシリン、血液代用剤など)は、数多くの被爆者の命を救い、特に乾燥血漿による静脈注射は、当時としては画期的な治療法であり、日本の点滴治療の先駆けの一つ となりました。

戦後、松永勝医師は広島での経験とジュノー博士の影響を胸に、放射線障害の研究と被爆者医療に生涯をかけました。原爆症の病態解明と治療法の確立に努める一方で、ジュノー博士の活動を後世に伝えることにも尽力しました。1979年には、 当時ジュノー博士が広島に届け、救護活動に使用された医療器具や薬品の一部を広島平和記念資料館に寄贈 しました。また1999年には、資料館の依頼に応じて証言文「ジュノーさんの想い出」を執筆し、博士との出会いと活動を記録として残しました。

松永医師の寄贈資料や証言は、 広島の極限状況下で国境を越えて人道支援に尽くしたジュノー博士と、それに共にあたった松永勝医師の不屈の精神、そして赤十字の普遍的理念 を今に伝える貴重な歴史的証言です。

松永勝医師の生涯は、医学の専門性と人間愛をもって苦しむ人々に寄り添い続けた、尊い実践の軌跡です。彼の歩みは、ジュノー博士との出会いを通じて広島で芽生えた医療人としての使命感と共に、今なお、平和と人道の意義を静かに私たちに語りかけています。

(推定文字数:約1350字)

出典

  • 広島平和記念資料館 収蔵資料(松永勝氏寄贈品、証言「ジュノーさんの想い出」等)
  • 大佐古一郎著『ドクター・ジュノー 武器なき勇者―ヒロシマに一番乗りした男』(新潮社)
  • 広島赤十字・原爆病院、広島県医師会の記録
  • 赤十字国際委員会(ICRC)の公的資料

上野照子(うえのてるこ)

(生年非公開)
上野照子当時の写真 赤十字国際委員会ホームページより

上野照子は、1945年8月6日、広島への原子爆弾投下という未曽有の悲劇のさなか、広島赤十字病院附属看護学校の2年生として、わずか15歳で被爆し、自らも危険な状況にありながら同級生の救出や無数の負傷者の看護に不眠不休で奔走した人物です。彼女の壮絶な体験と、戦後長きにわたりその記憶を語り継ぐ活動は、核兵器の非人道性と戦争の悲惨さ、そして何よりも平和の尊さを、私たちに強く訴えかけています。その姿は、若くして極限状況に置かれた一人の少女が、いかにして人としての尊厳と他者への思いやりを失わずに生き抜いたかを示す、感動的な証左と言えるでしょう。

運命の日、1945年8月6日午前8時15分。上野さんは、爆心地から南東へ約1.6キロメートルに位置する広島赤十字病院の寄宿舎「常磐寮」の一室にいました。その瞬間、窓がピカッと光り、強烈な閃光が部屋を白く染め上げると同時に、家全体を揺るがす轟音と猛烈な爆風が襲いかかりました。彼女はとっさに机の下に身を潜めましたが、建物は凄まじい力で破壊され、二階部分が崩れ落ちてきました。幸いにも一命を取り留めたものの、周囲は暗闇と粉塵に包まれ、何が起こったのかすぐには理解できませんでした。瓦礫の山と化した寮の中から、彼女は自力で這い出し、目の前に広がる信じがたい光景に言葉を失います。そこは、先ほどまでの日常とは全く異なる、地獄のような世界でした。彼女はすぐに、まだ瓦礫の下敷きになっている同級生たちの救出活動に取り掛かりました。必死に声をかけ、手を伸ばし、助け出そうとしましたが、目の前で炎に包まれ焼死していく友人、倒壊した建材の下で圧死していく仲間たちの姿を、なすすべもなく見送らなければならないという、あまりにも過酷な現実を突きつけられました。その光景は、15歳の少女の心に生涯消えることのない深い傷として刻まれました。

命からがら病院本館にたどり着くと、そこは既に阿鼻叫喚の巷と化していました。建物自体も大きな被害を受けていましたが、それ以上に、助けを求めるおびただしい数の負傷者で院内は埋め尽くされ、廊下や階段、玄関ホールに至るまで足の踏み場もないほどでした。医薬品や包帯などの衛生材料は瞬く間に底をつき、医師や看護師も多くが死傷し、病院機能は実質的に麻痺状態に陥っていました。このような医療崩壊とも言える絶望的な状況下で、上野さんを含む広島赤十字病院附属看護学校のまだ若い学生たちは、まさに文字通り不眠不休で救護活動にあたりました。彼女たちは、押し寄せる負傷者に対し、ほとんど治療らしい治療ができないもどかしさと無力感に苛まれながらも、必死に手を尽くしました。わずかに残っていた消毒薬リバノールを水で極限まで薄めて、広範囲の火傷を負った人々の皮膚に塗布することくらいしかできないこともありました。全身の皮膚が焼け爛れて垂れ下がり、苦痛に呻く人。体中に無数のガラス片が突き刺さり、血まみれになっている人。息も絶え絶えに「水を…水を…」と懇願する人。次から次へと運び込まれてくる、あるいは自力でたどり着いてくる負傷者の手当てに、彼女たちは休む間もなく追われました。特に上野さんの記憶に鮮明に残っているのは、脊椎カリエスを患い、常時ギプスベッドで寝たきりだったある軍人患者を、その重いギプスベッドごと背負い、迫りくる火災から逃れるために病院の外まで必死で避難させたことです。それは、まさに想像を絶する力仕事であり、極限状態の中での人間愛の発露でした。周囲は炎と黒煙、そして死臭に包まれ、まさに地獄絵図そのものだったと彼女は語っています。

広島赤十字病院附属看護学校の学生たちは、本来であればまだ知識や技術を習得している途上の、いわば「学ぶ立場」にあるべき存在でした。しかし、原子爆弾投下という未曽有のカタストロフは、彼女たちにそのような猶予を与えませんでした。被爆したその瞬間から、彼女たちは負傷した医療従事者に代わり、あるいはその補助として、医療の最前線に立たざるを得なくなり、一人の医療従事者として人命救助というあまりにも重い責務を担うことになったのです。 十分な医学知識も臨床経験も持たない10代半ばの少女たちにとって、それは想像を絶するほどのプレッシャーであり、凄惨な光景を目の当たりにすることによる精神的な負担も計り知れないものがあったはずです。次々と目の前で失われていく命、助けを求める悲痛な叫び、そして自らも被爆者であるという現実。しかし、そのような極限状況下にあっても、彼女たちを突き動かしたのは、赤十字看護婦としての使命感と、目の前で苦しんでいる人々を何とかして助けたい、その苦しみを少しでも和らげたいという、人間として根源的な強い思いやり、そして博愛の精神だったのでしょう。仲間たちと励まし合い、支え合いながら、彼女たちは自らの恐怖や疲労を押し殺し、献身的に看護を続けました。

原子爆弾投下から数日が経過し、上野さんの父親が娘の安否を気遣い、遠方から危険を冒して迎えに来ました。しかし、彼女は「自分はまだここで傷病者のために働きたいのです」と、父親と共に帰郷することを毅然として断りました。そしてその後も約1ヶ月半にわたり、まさに不眠不休と言える状態で、広島赤十字病院での救護活動を続けました。戦禍が終息した後の1946年(昭和21年)、彼女は広島赤十字病院附属看護学校を卒業し、正式な看護婦として広島赤十字病院の外科病棟に6年間勤務しました。そこでは、原爆による火傷が原因でケロイドになった患者たちへの皮膚移植手術の補助など、被爆者医療の現実に深く関わり続けました。

あの日の壮絶な被爆体験は、上野さんの人生観に計り知れないほど大きな影響を与えました。戦後、結婚し、新しい家族を築く中でも、子どもを授かる際には「被爆の影響で健康な子どもが生まれてくるだろうか」という、被爆者特有の深い不安と葛藤を抱え続けました。幸いにも無事に家族を持つことができましたが、その喜びの陰には常に、あの日の記憶と、放射線が人体に及ぼす未知の影響への恐れが潜んでいました。現在も、彼女は毎年8月6日の原爆忌や春秋の彼岸には、広島平和記念公園内の慰霊碑や、かつての仲間たちが眠る場所を訪れ、犠牲になった多くの御霊に水を供え、静かに手を合わせ、世界の恒久平和への祈りを捧げています。

上野照子さんは、戦後長きにわたり、自らの被爆体験を国内外で語り継ぐ「語り部」としての活動を精力的に続けています。「あの日、広島のあらゆるものが燃えました。人も、鳥も、トンボも、蝶も、草も木も、何もかもが、一瞬にして燃え尽きました」と静かに、しかし力強く語る彼女の証言は、原子爆弾がもたらした無差別かつ非人道的な破壊の実相を、生々しく、そして克明に伝えます。その言葉は、聴く者の心に深く突き刺さり、核兵器廃絶と平和構築への強い願いを喚起し続けています。彼女の活動は、まさに赤十字の根本精神である「人道」と「博愛」を、その生涯を通じて体現し、平和への切なる願いを未来へと繋いでいく、尊い営みです。そして、彼女を含めた広島赤十字病院附属看護学校の多くの若い学生たちが、あの地獄のような状況下において示した驚くべき勇気、献身、そして人間愛は、いかに困難な状況に直面しようとも、人道的な精神と揺るぎない使命感が、人々を力強く支え、絶望の中から未来を切り開く大きな力となり得るのかを、私たちに紛れもない事実として示しているのです。

(推定文字数:約1550字)

出典

  • 広島赤十字・原爆病院関連資料(看護学生の記録、証言等)
  • 広島平和記念資料館 収蔵資料(被爆体験証言等)
  • 各種被爆者証言集(上野照子氏の証言を含むもの)
  • 日本赤十字社関連刊行物

赤十字看護学生たち

(生年非公開)

1945年8月6日、広島の空に突如として閃光が走り、人類史上初めて核兵器が都市に投下された。この瞬間、広島の街は壊滅的な被害を受け、数万人が命を落とし、 何十万人もの人々が負傷した。原爆の影響は瞬時に広がり、 街は混沌と化した。しかし、その中で希望の光を見出したのは、広島赤十字看護学校の若き看護学生たちだった。 彼女たちは、自らも被爆者でありながら、使命感と人道の精神に導かれ、救護活動に身を投じた

原爆投下当時、広島赤十字病院とその付属看護学校は爆心地から約1.5キロメートルの距離に位置していた。建物は大きな被害を受けたものの、 完全に倒壊することはなかった。しかし、多くの看護学生や職員が負傷し、中には命を落とした者もいた。 生き残った学生たちは、自らの傷や恐怖と向き合いながらも、周囲の惨状を目の当たりにして行動を起こした。 彼女たちの多くは10代後半から20代前半の若さであり、まだ完全な医療知識を身につけていなかったにもかかわらず、 懸命に負傷者の救護に駆けつけた。

赤十字前での看護学生

大島キミエさん(被爆当時日赤看護学生・17歳)
「山のように押し寄せてくるんです。日赤日赤と言って。それがもう、やけどでね顔が真っ黒で体が膨らんでるんですよね。水ぶくれみたいになって膨らんで」
― RCC イマナマより

病院内は負傷者で溢れ、医療設備は破壊され、医薬品も不足していたさらに、放射線の影響について当時は十分な知識がなく、 学生たちは自らの命の危険も顧みず活動を続けた 看護学生の一人は、当時の状況を振り返り、 「私たちにできることは限られていました。水を求める負傷者に水を与え、傷口を洗い、簡単な包帯を巻くことくらい。 でも、そうするしかなかったのです」と証言している

彼女たちは限られた医療知識と資源の中で創意工夫を凝らした。木の皮を煎じて消毒液の代わりにしたり、 寝具が足りない中で畳や板を使って臨時のベッドを作ったりした 。看護学生たちの多くも被爆者であり、ガラスの破片で負傷した者や熱線によるやけどを負った者もいた。 放射線による急性症状に苦しみながらも、彼女たちは救護活動を続けた。

「自分の体調が悪くても、目の前で苦しんでいる人を見過ごすことはできませんでした」 と当時の学生は振り返る 。

これらの行動は、赤十字の基本理念「人道」を体現するものであった。 しかし、それは単なる理念や教育の結果だけではなく、極限状況下で発揮された彼女たちの人間性の輝きでもあった。 広島赤十字病院は被爆後も機能し続けた数少ない医療施設の一つとなり、 多くの被爆者の救命に貢献した。それを支えたのが、若き看護学生たちの献身的な努力だった

「私たちは訓練を受けていましたが、こんな状況に備えることはできませんでした。 それでも、先生方から学んだ通り、できる限りのことをしようと思いました」 と、当時の学生は後に語っています。 彼女たちは、火傷や外傷の処置、苦痛を和らげるためのケア、さらには亡くなっていく患者の看取りまで、 様々な場面で力を尽くした。水や食料、医薬品が不足する中、彼女たちは知恵を絞り、 限られた資源で最大限の効果を上げようと努力した。

広島赤十字看護学校の学生たちの行動は、単に医療の歴史の一ページにとどまらない。 それは、極限状況下における人間の可能性と責任を示すものである 。 彼女たちの多くは、後に放射線障害や心的外傷に苦しみながらも、その経験を語り継ぎ、 平和の尊さと医療の重要性を伝え続けた。 「私たちの経験が二度と繰り返されないことを願っています。 しかし、もし災害や紛争が起きたとき、人々が互いに助け合うことの大切さは伝えたい」 と、元看護学生は語っている

被爆から80年近くが経過した今日、当時の看護学生のほとんどはすでにこの世を去っています。 しかし、 彼女たちの精神は現代の医療者にも脈々と受け継がれている。 広島赤十字病院では今も、被爆者医療の経験を活かした災害医療の研究や訓練が行われている 。 また、世界各地の紛争地域や災害現場に派遣される医療チームの中には、 広島の経験から学び、その教訓を実践する人々がいる。

広島赤十字看護学校の学生たちの行動は、核兵器の非人道性を如実に示すとともに、 どんな状況でも人間の尊厳を守ろうとする人道の精神の重要性を教えている 。 彼女たちの献身と勇気は、今日の私たちに、平和の尊さと生命の価値、 そして人間の可能性を改めて考えさせるものである。 原爆の悲劇の中で輝いた人道の光は、未来への道を照らし続けている。

(推定文字数:約1550字)

出典

  1. 広島平和記念資料館公式サイト, 「原子爆弾投下」
  2. NHK, 「原爆による被害」
  3. 広島赤十字・原爆病院, 「被爆体験記 - 看護学生」
  4. 広島赤十字・原爆病院公式サイト, 「病院概要」
  5. 厚生労働省, 「戦後医療」
  6. 広島大学, 「放射線の歴史と理解」
  7. 広島県被爆者団体協議会, 「被爆証言集」
  8. 赤十字看護教育史編纂会, 「創意と工夫の看護」
  9. 日本赤十字社, 「赤十字の理念」
  10. 広島赤十字・原爆病院, 「病院の歴史」
  11. 被爆者援護事業団, 「被爆者の戦後」
  12. 広島赤十字・原爆病院, 「災害医療」

平和のための共通点と貢献

ここに紹介した人々は、医師、看護師、行政官、ジャーナリスト、宗教家、海外からの支援者など、その立場や国籍、専門分野は様々ですが、共通して原子爆弾によってもたらされた未曽有の苦難に立ち向かい、広島の復興と平和のために力を尽くしました。彼らの活動には、いくつかの重要な共通点が見られます。

これらの人物たちは、「人間のいのちと健康、尊厳を守る」という共通の価値観のもと、絶望的な状況下でも希望を失わず、不屈の精神と行動力で時代を切り開きました。彼らの功績は、広島の復興を支え、今日の平和活動や人道支援のあり方を考える上で、貴重な指針となっています。